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これもゼロベースからの書き込みなので、これから調べて行こうと思ってます。
弘治三年(1557)、宗麟は博多においてイエズス会に教会と司祭館を建設するための土地を与え布教活動を保障したが、博多に建設された教会等は永禄二年(1559)二月、筑紫惟門・広門親子の博多焼き打ちによって罹災、宣教師カーゴ神父は豊後に避難した。
永禄四年(1561)博多のキリシタン商人「末次興善」は聖堂と司祭館を再建し元亀三年(1573)布教長カブラル神父を博多に迎え、天正八年(1580)に博多が再び龍造寺により罹災し末次興善が秋月に移るまで修道士や信徒を守り続けた。
豊臣秀吉は九州討伐中にキリシタンによる奴隷貿易を見て天正一五年(1587)6月19日、突如バテレン追放令を発しますが、慶長五年(1600)黒田長政が新たに筑前に入封すると再び勢いを盛り返し、慶長一八年(1613)幕府のキリシタン禁令が出されるまでキリスト教を保護しました。
この期間の武将の入信などあったのか、埋葬遺跡(長崎に埋葬されたものを除く)などで長圓寺の石柱以外にあるのかなど調べてみたいですね。
..2023/11/ 2 09:59:22(木) [43]
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