【乱世の華】高橋紹運【戦国の花】

乱世の華 高橋紹運

■ 序文 高橋紹運 紹運アイコン ~勇将の系譜~

 戦国時代末期、天下取りに名乗りを上げた豊臣秀吉は、ひとりの男の死に落涙したと云います。その男の名は『高橋紹運』

 死の分かった戦いに臨み、僅か七百六十三名の兵と共に、九州制覇を図る島津氏の五万と云われる大軍に抗い、戦史に於いても屈指といわれる激戦の果て自刃しました。城兵は雑兵ですらひとりも逃げ出す者無く、降伏をする者さえおらず、その様は正に玉が砕け散るが如く『玉砕』と云われました。

 君臣一体の戦ぶりは、敵である島津氏をも感嘆し「この人と友であったなら、いかばかり心涼しかったろう」と慟哭させたと伝わります。この戦い『筑前岩屋城の戦い』は小戦でしたが、この小さな戦いの帰趨が、島津氏の九州制覇の大望を挫き、豊臣秀吉の天下統一への先駆けとして繋がる事となります。

 島津氏を降し、西国全域を平定を果たした豊臣秀吉は、帰路に岩屋城へ訪れて城を検分し、城兵の奮戦を伝え聞き落涙したと伝わります。そして紹運と城兵達に対し『乱世の華』または『戦国の花』と称えて彼等の死を惜しんだそうです。秀吉はその生涯の内、紹運の子や家族、彼の家臣団を信頼し大切に扱いました。

 紹運は自らの死を以て、主家を救い、残された家族と一族・家中を守り、そして秀吉の恩にも報いました。清廉な人柄で、家臣はもとより領民にも慕われた紹運。戦国乱世にあって、揺るぎない忠節、信頼と、その結束力と絆、死して尚、敵でさえ頭を垂れたその生き様の源は何処にあるのか?彼の生涯を綴りながら紹介したいと思います。

以下の文章に於いて「鎮理」「鎮種」等の名称を一般的に知られる『紹運』と表記する事があります。構成上の都合ですので(*・ω・)ノその辺何卒理解の程よろしくお願いします。

管理人しらべアイコン管理人しらべ記す

当サイト   更新 2023/10/21
  当サイト  新公開 2023/10/21
旧サイト  初公開 2000/06/15

目次

■ 出自と人となり

吉弘一族 吉弘鎮理

 高橋紹運(たかはし しょううん)は、天文17年(てんぶん、1548年)9月24日、九州の守護大名・大友氏の加判衆(かはんしゅう)吉弘鑑理(よしひろ あきまさ)の次男として生まれました。

 吉弘氏は豊後国・国東(ぶんごのくに、くにさき)の領主で屋山城を居城とします。父鑑理の頃は、大友家の三老(四老とも)の一人として大友家の興隆に尽くした功臣でした。兄に吉弘鎮信(よしひろ しげのぶ、吉弘加兵衛鎮信、よしひろ かへい しげのぶ)があり、大友宗麟(おおとも そうりん)の側近として活躍しています。

殊に戦国末期の吉弘氏は、忠節無比、義烈とさえ云われる一族として知られています。

 祖父吉弘氏直(よしひろ うじなお)は、大内氏との『勢場ヶ原の戦い』(せいばがはらのたたかい、せいばがはる)で戦い壮絶な戦死を遂げ。

 紹運の兄吉弘鎮信(よしひろ しげのぶ、吉弘加兵衛鎮信、よしひろ かへい しげのぶ)は、島津氏との『耳川の戦い』(みみかわのたたかい、耳川合戦、高城川合戦)で勇戦鼓舞するも戦死。

 鎮信の子で家督を継いだ吉弘統幸(よしひろ むねゆき、吉弘加兵衛統幸 よしひろ かへい むねゆき)も又、関ケ原の九州戦役に於いて、旧主大友義統(宗麟の嫡子、おおとも よしむね)の懇望を受け、『石垣原の戦い』(いしがきばるのたたかい)で黒田如水と戦い非業の死を迎えています。

 主への忠節と、一族と家臣団の団結力は戦国時代では稀にみる傑出した一族といえます。それが故に、大友氏からは特に信頼されていました。


 紹運の幼名は千寿丸(せんじゅまる、ちとせまる)、長じて弥七郎。主・大友義鎮(宗麟)から偏諱(へんき)を受け「鎮」の一字を戴き、父鑑理の一字を併せて『吉弘鎮理』(よしひろ しげまさ、吉弘弥七郎鎮理)を名乗ります。後述しますが、後に高橋氏の家督を継ぐ事になり、高橋家の通字「種」をつけて『高橋鎮種』(たかはし しげたね)となり、後に『紹運』(しょううん、じょううん)と号しました。

 大友家中で若き頃より声望があったそうで、その人柄は温厚、沈着冷静で思慮深く、度量が人に優れて寛大であり、義に篤い高義真実の人であったと云われます。普段の紹運は柔和で饒舌は好まなかったが、一度口を開けば聞く者皆納得する至言を吐いたといわれます。事を起こすのに言葉では無く自ら率先して行動で示した為、人々の信頼が厚かったようです。人に優しく自らに厳しい『外柔内剛』の人といえるでしょう。

 また『高橋紹運記』という史書には『賢徳の相有りて、衆に異る。器量の仁にてましませば』とあり『義に生き義兵を以て義に死んだ。家中の勇も仁義の勇である』と書かれています。吉弘家の次男の身でしたが、若いながらも大友家中の人々からは「この人物こそ将来の英雄となるであろう」 と噂されたといわれます。

大友氏関連の豆知識!其の一

■■ 加判衆(かばんしゅう、かはんしゅう)
 大友家臣団の中での最上位機関。家老とも概ね同義である。家中の有力家臣から選出された評定衆で、豊後国本国や分国の軍事・行政の政策の取り決めを行った。加判衆の選出は同紋衆(どうもんしゅう)が三名、他姓衆(たじょうしゅう)が三名の六名で構成された。また、固定した終身的なものでは無く、時期により構成員は再編された。


■ 同紋衆(どうもんしゅう)
 大友氏から家紋(杏葉紋)の使用を許された一門や分家、譜代家臣の事。

 □大友支族として
託摩氏(たくま)、田原氏(たはら、たわら、たばる?)志賀氏(しが)

 □ 大友庶家・支族・親族・譜代・その他
立花氏(たちばな)、吉弘氏(よしひろ、田原氏の分家)、一萬田氏(いちまだ、一万田)、戸次氏(べっき、へつぎ)、臼杵氏(うすき)、吉岡氏(よしおか)、田北氏(たぎた、たきた)などなど

■ 他姓衆・他紋衆(たじょうしゅう、たもんしゅう)
 大友氏が入府した豊後国の在地勢力、有力な国人勢力などの事。大友氏の家紋(杏葉紋)の使用を許されない家柄。

 ▲ 豊後在地領主の大神氏(おおが)系などなど。
緒方氏(おがた)、佐伯氏(さえき、さいき)、臼杵氏(うすき)、戸次氏(べっき、へつぎ)、小原氏(おばら、おはら)、大野氏(おおの)などなど。


★★ ★ 管理人しらべアイコンしらべの追記 ★★ ★
 加判衆は、大友宗麟の伸張期には巧く機能しましたが、実際には一門譜代(同紋衆)と在地領主(他姓衆)との身分格差などあり、実際にはあまり巧く機能せず、『姓氏遺恨之事』『氏姓の争い』とも云われる「小原鑑元の乱」など騒乱を起こしてたりします。

…正直、個々の氏族の区分は知識不足なので突っ込み無用でお願いします。
『他姓衆』…ずっと「たせいしゅう」って呼んでたよ(ボソッ)「たじょうしゅう」とか誰も読めねぇだろうがよぅ!!!



■■ 豊州三老(ほうしゅうさんろう、四老とも)
 豊後大友氏の三家老(三人の家老・宿老)の意。選出人の候補は諸説あります。以下

  吉岡長増(よしおか ながます、宗歓、そうかん)
  臼杵鑑速(うすき あきはや、あきすみ)
  吉弘鑑理(よしひろ あきまさ、あきのり、あきただ、他)
  立花道雪(たちばな どうせつ、戸次鑑連(べっき あきつら、戸次道雪、べっき どうせつ))

 吉岡・臼杵・吉弘を以て三老とされたり、立花(戸次)・臼杵・吉弘を以て三老とされる事もある。また、同上四名をさして四老とも称された。

 三老・四老の呼称は、大友宗麟麾下で勢威伸張に貢献した当時の老臣の呼称である。殊に、道雪を入れた三老の呼称をしたのは、敵対した毛利氏の一族・小早川隆景によるものとも云われる。


偏諱(へんき)
 主従の主(あるじ)に依って、主の名前の一字を賜る事。元服した際に烏帽子親(えぼしおや)として名付け親ともなる。一字を賜る事は栄誉とされ権威と信頼の証でもあった。大友義鎮(宗麟)は、時の将軍に「義」の一字を賜ったが、本来は家(一族)の通字と被らない方を賜る。大友氏の戦国後期三代の場合、「鑑」→「鎮」→「統」の一字を元服した家臣に偏諱として下賜した。

 上記の理由により、同世代であっても、姓は違うが同名の名前を持つ武将が多い。…その為、現代では同じ・同じような名前が多く、判りにくい、との意見も散見するが、寧ろ、偏諱を受けた世代と文字によって区別が付きやすいともいえる。

大友義= 戸次鑑連、吉弘鑑理、臼杵鑑速、一萬田鑑実、蒲池鑑盛、立花鑑載、他
大友義= 高橋鎮種、吉弘鎮信、臼杵鎮続(紹冊)、一萬田鎮実、斉藤鎮実、戸次鎮連、他
大友義= 高橋統虎、吉弘統幸、高橋統増、戸次統常、吉岡統増(甚橘)、他

 以上の様に、世代ごとに覚えれば解り易いと思う。だいたい先代当主の時に偏諱を受けた武将が、次代当主に代替わりすると、有力武将として活躍してます。 

■ 心ありて・・・ 現代人の心をも震わせる嫁取り

斎藤鎮実の妹 宋雲尼

上記に重複しますが、実直な高橋紹運の人柄を最も物語っている一挿話があります。

この話は、紹運がまだ弥七郎を名乗っていた頃の話である。

 大友家中で侍大将(さむらいだいしょう)を勤める斉藤鎮実(さいとう しげざね)という武勇の士がいた。鎮実の父は大友家で加判衆(家老職)にあったが、先代大友義鑑(おおとも よしあき)が、家督相続で嫡子を廃嫡し末子相続を強行しようした為、主を諌めた末、謀殺された。

 その後『二階崩れの変』(にかいくずれのへん)というお家騒動が起こったが、乱の鎮定後、家督を継いだ大友義鎮(よししげ、後の宗麟)は、惨死した斉藤長実(さいとう ながざね)を不憫に思い、その嫡子である鎮実に斉藤家の家督を相続させ、その所領も今まで通りとし、丹生庄(にうしょう、大分県北海部郡・きたあまべぐん)の領主として遇しました。鎮実はこの後、大友家臣団の中核の一人として活躍し、勇将と呼ばれる事となります。


 弥七郎(紹運)の父吉弘鑑理(一説では兄鎮信)と、斉藤鎮実は日頃から馬が合ったらしく友誼を持っていました。弥七郎がまだ筧(かけい)の館(豊後高田市、ぶんごたかだ)にいた頃、弥七郎の父吉弘鑑理と、斉藤鎮実の間で、鎮実の妹御(一説では鎮実の娘。実名不詳、後の宋雲尼)を弥七郎の嫁にと婚姻の約束が交わされていました。

 鎮実の妹は、当時豊後一とも言われる花のような可憐な少女だったといわれます。弥七郎も鎮実の妹御の温和な人柄に惹かれ、この婚姻を承諾していました。


 しかし時は戦国の世。当時、主家大友氏は、中国地方に台頭した毛利氏(毛利元就)と度々交戦し、弥七郎も父と兄に従い各地を転戦する日々が続いていました。ある時、弥七郎は所用で鎮実に会う機会があり面会する事となりました。そこで弥七郎は、戦陣の合間に婚儀が延びたのを詫び、必ず妹御を妻に迎える事を伝えました。しかし鎮実は苦渋の表情を浮かべ婚約の破棄を申し出たのです。

『常山紀談』(じょうざんきだん)には
 「げにげに申し交わせしは忘るべくも候はねど、その後、妹は痘瘡を煩いて、以ての外みぐるしくなりぬ。中々かれが有様にて見届けらるべきにあらず。今にては参らせん事叶い難し」

 とあります。要約すると「妹は当時流行っていた痘瘡(ほうそう。天然痘)に罹り、命は取り留めたが、容貌が一変してしまい、とても嫁に出す事は出来ない」と鎮実は云うのです。

それを聞いた弥七郎は、うな垂れる鎮実に対し
 「これは思いもよらぬお言葉を聞くものです。斉藤家といえば代々武勇誉れ高き武人の流れであればこそ、当家の嫁にと望み申し入れた事です。私が妹御を妻にと所望したのは、その心根の優しさであって容色ではありません。不幸容貌一変したとて心根まで変わるものでしょうか」

 「拙者と致しましても、少しも色好みの浮いた気持ちで妻にと望んでいるのではありません。どうして武士の約束を違える事が出来ましょう」
と心の内を披瀝し、程なくして約束どおり彼女を妻に迎え入れたそうです。


 結婚した時期は不明ですが、長男の千熊丸(せんくままる、後の立花宗茂)が永禄十年(1567)誕生なので、永禄八年から九年頃、弥七郎が19歳頃、宋雲尼が16~17歳頃と云われています。

 弥七郎の見込んだ通り、彼女はその心根で人々に接した為、家中からは母の如く慕われたと云われます。また子宝にも恵まれ、武将の妻そして母として内助の功多く賢母の名を高めました。

 弥七郎は、後に高橋紹運と名乗りますが、多くの戦国武将が側室を持つのが当たり前だった時代、その生涯で伴侶は宋雲尼だけだったそうです。彼女の実名は伝わっていませんが、その法号から『宋雲尼』(そううんに、宋雲院)と呼ばれています。

 宋雲尼の兄斉藤鎮実は、うち続く不幸の中にあった妹を不憫に思っていただけに、弥七郎への感謝と妹の幸福を誰よりも歓んだといいます。両家の関係がより深まったのはいうまでもありません。

戦国こぼれ話 類似の逸話

因みに、同じ戦国時代、この宋雲尼と紹運の話と似た話が2つ程あります。

 1つ目は、毛利元就の二男・吉川元春と、熊谷信直の娘(新庄局、しんじょうのつぼね)の話。
 2つ目は、明智光秀と、妻の煕子(ひろこ)の話です。

 吉川元春と熊谷信直の娘(新庄局)の話は、紹運と宋雲尼の話とは少し違って、醜女(しこめ)と知られる信直の娘を娶る理由を「美女に惑わされて武名を汚したくない」事と、「世に知られ誰も振り向かない醜女を娶れば、その親で勇将として知られる熊谷信直の感激は深く、毛利に感謝して死力を尽くしてくれるに違いない」といった、少し権謀風味な話になってます。一方で、女色に溺れないよう自ら律していたとも云われます。

 明智光秀と煕子の話は、紹運と宋雲尼の場合と話しの筋が似ていて少し変則気味です。疱瘡に罹った煕子に代わって、父親が煕子に瓜二つの妹を光秀に煕子として娶わせ、それを光秀が看破して無事結婚という流れです。但し、この光秀夫婦の話は創作性が強く、紹運夫婦の話を元とした後世の創作ではないかとも昔から疑われています。また、煕子は疱瘡に罹ってはおらず、大変美人であり、光秀の主君・織田信長に横恋慕された、という様な話もあり、真偽は定かではありません。


 しかしながら、昔も今も美醜で人を判断する事は、あまり変わらないのかもしれません。しかし、美女は傾国や傾城など悪い例えに使われますが、不美人といわれた女性は良妻賢母と言われる人が多いのも事実なのかもしれません。ここに取り上げた3人の女性は、それぞれが夫婦円満で子宝に恵まれ、家族や家中との心と心の繋がりや絆が強かった事が共通しています。そして戦国時代に珍しく、夫は側室を持つ事がなかった事も…。 

■ 多々良川の戦いと、大蔵一門=高橋氏への養子入り

【大友氏】戦国随一の謀将 毛利元就を九州から駆逐す!【毛利狐】

 宋雲尼が国東半島の吉弘家に輿入れしてまもなく、大友家の領国である筑前国で騒乱が起こりました。中国地方で勢力を増す毛利元就が九州侵略を目論み、大友家に不満をもつ者を煽動した為です。

 中でも大友家の重臣の一人で、宝満山城・岩屋城(現在の太宰府市)を所領に持つ『高橋鑑種』(たかはし あきたね)を首魁として、大友氏の分家である『立花鑑載』(たちばな あきとし)、筑前や肥前の諸豪族の秋月氏、筑紫氏、宗像氏などが一斉に蜂起し混乱しました。

 大友宗麟は直ちに配下の豊州三老と呼ばれる戸次鑑連(後の立花道雪)、臼杵鑑速、吉弘鑑理をはじめ、斉藤鎮実らの武将に数万の兵を預けて筑前に侵攻させました。

 この時、吉弘鎮理(弥七郎、後の紹運)も父吉弘鑑理に従って転戦する事になります。毛利氏は『毛利の両川』(もうりのりょうせん)として知られる猛将・吉川元春と、知将・小早川隆景の有能な息子に大軍を預けて筑前国へ侵攻させ大友氏を圧迫します。戦況は一進一退し、商都・博多の東に位置する筑前多々良川(たたらがわ)で対峙し合戦に及ぶも両軍膠着状態に陥りました。

 永禄12年末(1569)、ここにきて大友宗麟は老臣吉岡宗歓と図り、先年、毛利元就によって滅ぼされた大内氏の一族で、大友氏に庇護されていた大内輝弘(おおうち てるひろ)に兵を与えて毛利氏の領国に逆侵攻の策にでました。戦国随一の謀将といわれる元就でしたが、宗麟の謀略の前に屈し、手薄な本国の防衛の為に両川の軍勢を撤退させる事になり、毛利元就最晩年の屈辱的敗戦となりました。

 この追激戦で、吉弘家中の働きは目覚しく、当時吉弘隊の中にいたであろう弥七郎(紹運)も奮戦したものと思われます。毛利氏の掃討の後、筑前の叛徒は次々に大友氏に降ることになりました。

大蔵一門 高橋家の家督を相続す 高橋鎮種

 首魁のひとりだった高橋鑑種は、実家が大友氏の重臣である一萬田(いちまだ、一万田)氏であった為、助命され、領国を没収された上で豊前国へ移されました。大友氏の分家である立花氏は当主が死亡。その他の諸氏も大友氏の威に服した為、これより数年、大友氏の全盛期となります。


 そんな中、毛利氏に組して謀反を起こした高橋鑑種は豊前国小倉に追放されていましたが、鑑種に対する家中の不信が募り、高橋家の重臣が、直接豊後国の大友宗麟に直訴して、名族・高橋家の再興を望み大友の一族からの後嗣を望む事態となりました。

 実は先代当主である高橋長種(たかはし ながたね)には男子が無く、重臣等の協議の上で、大友氏に後嗣を要請していました。そこで大友氏は、諸氏である一萬田氏から鑑種を後嗣に選んで、高橋家の当主としてお家断絶を回避したという経緯がありました。そして今回の当主反乱の失策は大友家にも責があった為、改めて協議をする事となります。

大友義鎮(宗麟)は重臣と評議の結果

 「高橋家の居城 宝満・岩屋両城は、当家にとって重要な城であり、滅多な者を配する事は出来ない。鎮理は若年なれど人物に不足はない。また、鑑種の実家一萬田家と、鎮理の実家吉弘家は縁戚の間柄なので、名跡を継いでも可笑しくはあるまい」

 という事になり、元亀元年(1570)5月(永禄十二年説もある)彼に鑑種の旧領・御笠郡(みかさぐん、現在の太宰府市周辺)一円を与え宝満山・岩屋両城督(ほうまんざん、いわや、じょうとく)とした。そのため彼は吉弘鎮理の名を改め、高橋家の通字『種』をつけて『高橋鎮種』『高橋 主膳兵衛尉 鎮種』(たかはし しげたね、たかはし しゅぜんびょうえのじょう しげたね)を名乗り、後に剃髪して『紹運』と号した。


 因み(ちなみ)に、高橋長種の兄であり前当主の高橋高種(たかはし たかたね)は、高橋家を出奔したとされ、京へ上洛し当時の室町将軍に仕えたとされる。この時、同じく近侍していた北条早雲と誼を通じ、後に伊豆へと流れて、坂東の後北条氏に仕えたという。また、高種の子は、北条氏綱の猶子となり北条氏を名乗ったとも云われている。

 ただ、高種周りの話は、当管理人『しらべ』の知らざるネット内の情報事なので突っ込まないで頂きたい。最近の研究で、そういう話があるって事らしいです。その辺の話なので責任は持てませぬ故 m(_ _)m陳謝。

大蔵氏(おおくらし)とは

 大蔵氏(大蔵一族、大蔵一門、大蔵党)は、渡来系の一族とされ、大蔵の管理などを役職とした為、大蔵姓を称した。戦国時代の北部九州で勢威があったのは、大宰府の官吏となった大蔵春実(おおくら はるざね、春種)を源流とした一派である。春実を祖とした嫡流の原田氏を始め、分派したそれぞれの始祖が秋月氏、美気氏、江上氏、原氏、三原氏、高橋氏、田尻氏等と、北部九州でそれぞれ勢力を伸ばした。

 戦国期でいえば、筑前国の西部に於いて勢威を伸ばした大蔵党一門の嫡流原田氏と、高橋鑑種の敗戦廃嫡の後、反大友勢力の旗頭(はたがしら)として九州の第四勢力とされた秋月氏が著名である。但し豊臣秀吉の九州侵攻以後は、それぞれが勢威を失い、小大名か、他家に隷属するか、除封となった。

管理人しらべアイコン管理人『しらべ』による 高橋『紹運』の読みについて補足

 当サイトに於ける『しょううん』読みですが、紹運公のお膝元である、地元太宰府での呼び方です。一般的には『じょううん』と表記される事が多いかもしれません。ネットで検索すると「じょううん」が正しいと権威がありそうなサイトでも書かれ、断言して書かれがちですが、根拠がある訳でも無いようです。

 当サイトの管理人しらべは、太宰府在住の太宰府人なので、地元の古老も使われ、慣れ親しんでいる『しょううん』呼びで統一する事としております。何卒宜しくお願い致します。…断言されようが、根拠示されようが変えないヨ!

 あと、個人的な考えですが、加藤清正を「せいしょうこう、せいしょこ(清正公)」と呼ぶような感じで、名前そのものを直接呼ぶのは不敬とか、そんな感じなのかもしれません。または、濁り無き生涯を送った紹運公なので、濁りの無い名前で呼んでるのかも・・・とか思ったりしてます。

■ 大友氏の全盛期

大友氏の筑前五城

元亀元年(1570)5月

 紹運は妻(宋雲尼)と生まれたばかりの千熊丸(せんくままる、後の立花宗茂、たちばな むねしげ)を伴って宝満・岩屋城に入城ます。前後して、筑前国最大の要衝・立花山城には、大友家の武神・戸次鑑連が家族を伴い入城し『立花道雪』を名乗ります。

(大友宗麟は、立花家は不忠の家であるとして、立花姓を名乗らせなかったともいわれます。) 

 当初、立花山城には紹運の父吉弘鑑理が赴任する予定でしたが、毛利氏との合戦の頃より発病し体調を崩していた為、急遽、筑後国(ちくごのくに、福岡県南部)に詰めていた戸次鑑連を立花山城城督の任に就かせる事としました。

 これ以後、紹運は年長の道雪の下で大友家の筑前支配の要として貢献し、領内の城砦などの整備や、城下の大宰府天満宮などの神社仏閣を保護するなど民政に意を注ぐ事になります。また紹運の兄吉弘鎮信が博多の豪商・島井宗室らと折衝していた関係から、彼らとも何らかの関わりを持つ事になりました。

 大友氏の筑前国支配の最重要軍事拠点として以下の五城が挙げられる。

スクロールできます
城名城督・城将支城所在地
立花山城(たちばなやまじょう、立花城)立花道雪
戸次鑑連(戸次道雪)
笈の山(おいのやま、御飯の山)
薦野(こもの)、舎利倉(しゃりくら)
麦野、箱崎、唐山、稲居塚
粕屋郡(かすやぐん)
宝満城(ほうまんじょう、宝満山城)高橋紹運
高橋鎮種
岩屋、龍ヶ城、升形、米の山御笠郡(みかさぐん)
柑子岳城(こうしがたけじょう)臼杵新介鎮氏
木付鑑実
志摩志摩郡(しまぐん)
鷲ヶ岳城(わしがたけじょう)大鶴宗雲猫峠那珂郡(なかぐん)
安楽平城(荒平城)(あらひらじょう)小田部紹叱茶臼、池田早良郡(さわらぐん)
城名城督・城将支城所在地
大友氏の筑前五城

 東に立花山城、南の太宰府付近の宝満山城、そして西部に柑子岳城と南西部に鷲ヶ岳城、安楽平城を添え、西国最大の商都博多を囲むように配されているのが分かる。更にいえば、当時の大友氏豊州三老及び、その一族が東西と南部の最重要拠点を占めている事に気付かれると思う。

大友氏関連の豆知識!其の二

■ 城督(じょうとく)、城督制(じょうとくせい)
 西国最大の大名家大内氏が好んで使った呼称。概ね一般的な『城主』の意味合いと同義。但し大内氏の場合は、分国支配の派遣武将が城を管理した所謂(いわゆる)『城代』(じょうだい、代わりの城主)の側面が強かった。大内氏が滅んだ後も、近隣の諸氏がこの呼称を使用したが、大内氏の後継を自称した毛利氏の場合、あまり定着せず、普通に城主とされる事が多かった。

 対して、大友氏の場合、大内氏の『城代』的な意味合いは薄れ、派遣された武将であっても、在地の所領を持つ、一般的な土着化した城主であった。また分国支配の拠点防衛の要として、地域の軍事行政に一定の独自の発動権・指揮権・決定権が与えられていた。所謂、地方司令官の様な感じです。拠点防衛も兼ねているので、適時に即決で柔軟且つフレキシブルな対応が出来る役職です。


 歴史あるあるで、『城督』の扱いを矮小化したい人が、ネット上で居るみたいなので補足してみました。大友氏の場合、『城督』は『城代』ではありません。



■ 方分(ほうぶん、かたわけ)
 当記事の本文では出てきませんが、大友氏独自の支配体制での役職には、上で紹介した『城督』の他に『方分』と云うものがあります。読みは『ほうぶん』『かたわけ』と、どちらが正しいと云う訳でもなく、使われ方に依ってどちらの読みも使われてたようです。

 『城督』が軍事面での、点の支配形態だとすると、『方分』は面の支配形態であると云えます。分国支配に於ける、司法・行政面、検察権・軍事指揮権・軍事発動権を併せ持つ国単位の統括機構で、政策の発布や取り締まり、在地諸人と本国の取次など、行政支配の面での役職です。地域単位での権限から『守護』に対する『守護代』の様な感じでしょうか。

 豊後国本国では、郡単位での方分が配され、分国では国単位で配された。
『豊前方分』『筑前方分』『筑後方分』『肥後方分』『肥前方分』


 なので『城督』に比べると、本来であればこちらの方が重要な役職でもあります。現代日本的に表せば、『城督』は警察・自衛隊の拠点の署長・司令官の様な感じで、『方分』は地方の知事・副知事の様な感じでしょうか。権限は、派遣した大友氏と、派遣された人物の裁量に依るので計り知れませんが…。

 細かい所で錯誤や間違いがあるかも知れませんが、まぁ何となくこんな感じの役職です。

管理人しらべアイコン管理人『しらべ』による 『立花』道雪の表記について補足

 本文で説明していますが、道雪は『立花』姓を名乗らなかったといわれます。これは現時点の研究結果として、名乗った資料が確認されて無いからです。

 その為、歴史研究の側面からは『立花道雪』とは呼ばず『戸次道雪』の呼称で呼ばれる事を是とするのが本筋とされています。

 ですが、当サイトでは敢えて煩雑を避ける為、一般的な『立花道雪』の呼称を使わせて頂きます。何卒その辺の事情を考慮して、突っ込みは控えて頂きたく存じ候。
m(_ _)m 

■ 『耳川の戦い』と三国鼎立(九州三国志)

筑前騒乱 高橋鎮種『紹運』と号す

天正六年(1578)

 主家大友家が、日向国『耳川の戦い』(みみかわのたたかい、耳川合戦、高城川の戦い)で薩摩国の島津氏に大敗した事に伴って、筑前の諸豪族が再び反旗を翻しました。この『耳川の戦い』で、妻宋雲尼の兄斉藤鎮実は戦死し、紹運の兄吉弘鎮信も壮絶な戦死を遂げました。更に大友家を担うべき有力武将の大半が戦死した事で大友家は衰運に向かう事になります。悲しむ暇も無く、紹運は立花道雪と共にそれら叛徒の鎮圧に奔走する事になりました。

 同年、高橋鎮種は、まだ若いにも関わらず剃髪し『紹運』と号しました。

 これ以後、紹運は年長の立花道雪と共闘し、小勢で以って、数で勝るそれ等の諸勢力を幾度も撃退し勇名を馳せました。しかし肝心の主家大友家は、一族の中から反乱を起こすなど本国である豊後一国すら治める事も出来ない始末でした。筑前の大友諸城は立花山・宝満・岩屋城の他は数城を除き手脆く落城し、紹運の周囲は立花山城を除き皆敵となり、筑前の大友領は本国から孤立状態に陥るようになります。

 この『耳川の戦い』敗戦以後より、『紹運ある所、道雪あり』と敵側から言われる程、紹運は立花道雪と一致団結して軍事行動を共にする様になります。紹運は、東国までその名を轟かす名将道雪を師父として敬い、彼の戦術・戦略を見聞きし実践する事によって、高橋家の軍勢は立花家の軍勢と共に大友家の双璧とまで謳われるほどの強兵へと成長して行きます。


 『耳川合戦』を契機とした敗戦と動乱を経て、九州の情勢は一変し、薩摩国(さつまのくに、鹿児島県)の島津氏、肥前国(ひぜんのくに佐賀県)の龍造寺氏、豊後国(ぶんごのくに大分県)の大友氏の勢力が拮抗した、所謂『九州三国鼎立時代(九州三国志)へと移行します。

動乱の戦国こぼれ話

『高橋紹運記』にこの時期に起こった一挿話があります。

 高橋家の家士・中島右京と、筑紫家の家士・帆足五郎兵衛は年来の友誼を持っていました。 ある日、中島の家に帆足がやって来たので、鶏料理を出して歓待していました。そこへ岩屋城から触れがあり「仔細があり筑紫家と手切れとなった。直ちに妻子を連れて登城せよ」との達しが届きました。

 世の無常を知り、二人は慟哭し、別れの盃を交しました。右京は帰り行く五郎兵衛を見送りながら、彼に「定め無き世とはいえ、明日からは主家の為、互いに敵味方となって戦わねば成らない」と言って硬く手を握り、そして「もし戦場で巡り合ったなら、御身の首は拙者が頂きますぞ」と冗談めかして言った。五郎兵衛も「その時は、お互い取るか取られるかだろうな」と答え、笑いながら帰っていきました。

 そして翌日、早くも筑紫軍は行動を起こし、高橋領へ攻め寄せました。そして世の無常とも云うべきか、奇しくも二人は戦場で出会ってしまうのです。ふたりは示し合わせた様に「さぁ組もうぞ」と、互いに笑いつつ声を掛け合い、そして意を決して戦い、死力を尽くした激闘の末、五郎兵衛が右京に討たれて死んだそうです。

 その後、中島右京は職を辞し、僧となってを亡き親友の菩提を弔う生涯を送ったと云われます。

■ 嫡子 高橋統虎の立花家養子入り

千熊丸の元服と、鬼道雪

天正九年(1581)

 紹運の嫡子千熊丸が元服加冠し、当時の大友家当主『大友義統』(おおとも よしむね、大友宗麟の嫡子)より「統」の偏諱を受け、名を『高橋 統虎』『高橋 弥七郎 統虎』(たかはし やしちろう むねとら)と名乗る事となります。そして、紹運にとって晴天の霹靂とでも云う事件が起こりました。

 千熊丸が元服して程なくして、盟友である立花道雪が紹運の元へ訪れてとんでもない提案をして来たのです。道雪は他家からの婚姻話が出る前に大宰府の岩屋城(宝満城?)に自ら赴き、紹運に対しに「統虎殿を立花の養子に頂きたい」と、かき口説いたと云います。

 紹運としても、手塩にかけた次代を継ぐべき嫡男であり、勇武の才がほのみえる統虎を手放したくはありませんでした。次男の千若丸(せんわかまる、後の高橋統増、後年の立花直次)ならばと、話を進めますが道雪は承知しません。

難色を示す紹運に対し道雪は

 「私は壮年の始めから今の七十有余歳に至るまで大友の為、幾十度となく戦い、多くの敵を倒してきました。しかし近年に至り大友家は衰退し、賊徒は負けても日に日に盛んに成り、味方は勝っても日に日に衰える有様。近くは龍造寺、島津、遠くは毛利の大敵を私の死後も、誰が御辺(ごへん)と共に大友を助けるのか。甚だ(はなはだ)心許無い(こころもとない)限りです」

 「貴殿は壮年であり男子を二人持っておられる。それに引き換え、私は老年であって一人の男子もありません。そこで統虎殿に立花家を相続させ、私の死後も御辺と共に心を合わせ大友家を守らせたいのです。養子に望むのは私の為ばかりではありません、国(大友家)に尽くす為でもあるのです。どうか、その事に力を尽くして下さい」

と、涙ながらに懇願しました。国を想う義心溢れる道雪の言葉に、遂に紹運は折れ、

「よく分かりました。統虎養子の話は、確かに承知しました。統虎は立花へ差し上げましょう。どうかご安心下さい。なれど何分まだ十五歳の若輩者ですので、どうか厳しくご養育下さい」

と、言葉をかけると、道雪は下げた入道頭を更に下げ、はらはらと大粒の涙で濡らしたと云います。

こうして最愛の嫡子は紹運の許を離れ、道雪に委ねる事となります。

武門の道 父子の誓いの刀剣『備前長光』

天正九年(1581)8月

 立花家への養子が決まり、道雪の娘『誾千代姫』(ぎんちよひめ)との縁組が整うと、統虎の立花家への出立を前に、家中の者たちを交えて別離の宴を開きました。

 『浅川聞書』(あさかわききがき)からの引用では

紹運様ハ常ニハ左のミ烈しき御事も、不被為有候得共、はつれに言語に絶したる厳しき御意地御座候、立斎(宗茂の事)御当家へ御養子ニ御出し折柄、御衣装被召、紹運様御前ニ御出、御暇乞乃御盃被遊て、紹運様今日より後ハ、此の紹運を務めて親と思ふまし、武士乃習乱れたる世ハ、明日ニも道雪老と敵味方ニ成ましきにあらず、左ある時ハ道雪老乃御先ニ被立成程、紹運を討候へ、道雪老ハ少も未練なる事を大ニ御嫌ひ乃御生故、自然不覚乃御覚悟ニ而、義絶等有ラン時ハ、岩屋乃城に御皈被成間敷候(おかえりなられまじくそうろう)、其時者(そのときは)、是非を以ていさきよく御生害あられよとて長光乃剣を被下候、御手つから被下の故事、今に御忘不被遊(おわすれあそばされず)、常々御身を離されす(ず)御形見と被思召との御はなし也、」

出典 『浅川聞書』
参考 吉永正春著『筑前戦国史 増補改訂版』内より引用

と書かれています。以下要約すると

紹運は統虎に別れの杯を交すと

 「今日より後は、この紹運を親とは思わぬよう努めよ、これより道雪殿がお前の父である。武門の習いとして明日にも道雪殿と敵味方になるやもしれぬ。その様な事になった時、お前は立花家の先鋒となって間違い無くこの紹運を討ち取る様に努めよ」

 「道雪殿は未練がましい事を嫌われる生れつき故、もしお前がわしを前に不覚の行跡あれば、必ずや義絶されよう。その時おめおめと当城へ帰ってくる事は許さぬ。自らの足らざるを悔やみ、腹を切って道雪殿にお詫びし果てよ」

そう言うと、その時の為にと『備前長光』の刀(剣)を手づから与えました。

 更に「とは云え、今日明日も覚つかぬ命である。不幸にしてこの紹運がお前より先に討死にする日が来るやもしれぬ。その時はその刀を我が形見と思い肌身離さず持っているがよい。そして、その刀を見、触れる度に、養家に対し、主家に対して尽くす義理を思い、かねてから儂が申している様に、武士たる者が辿るべき道を確かめよ」

と、厳しくも諭し励まして旅立たせました。統虎はこの時渡された『備前長光』を父の形見として、その生涯片時も手放さなかったと云われています。

 母である宋雲尼の許に統虎が暇乞いに来ると、彼女は「当家の事はご心配せず、道雪公に孝養を尽くし、立花の家名に塵をつけない様、相勤めなさい」と、逞しく成長した統虎がひとり立ちし、己が手許から去って行くことに寂しさを感じながらも、気丈に送り出したと言われます。


 
 統虎に随従する用人として、世戸口十兵衛、太田久作が選ばれました。二人しか選ばれなかったのは、立花家内での影響を考慮しての事だと云われます。紹運は統虎に教訓をたれた後、十兵衛にも親しく語り掛け

「古(いにしえ)より『勇将の元に弱卒無し』と云われておる。彼(か)の道雪公は、天下無双の剛将で義理堅固のお方である。麾下に義烈の士はなはだ多い。その方、幼少の統虎と共に立花に行くからには、よく輔け導き忠言を呈して、勇将の嗣子として恥ずかしくない立派な武人にして貰いたい。もし統虎の言動に立花家の信を欠く様な事あれば、その方はこの刀で自害し、道雪公にお詫びすると共に、統虎に忠諌し悔悟の念を起こさせよ」

と言って、その時の為にと九寸五分の短刀を与えた。またこの時、紹運より『紹』の一字を賜り『紹兵衛』を名乗ることを許されたと云われます。

立花統虎と『立花之姫城督』立花誾千代姫

天正九年(1581)8月18日、統虎は道雪の娘『誾千代姫』(ぎんちよ ひめ)と結ばれる。

 立花家からは、原尻宮内(はらじり くない、鎮清 しげきよ)を迎えに出し、統虎は世戸口十兵衛、太田久作を伴って入城し、立花山の山麗には、重臣である薦野増時(こもの ますとき)が出迎えたとされます。城を挙げての歓迎と、次代の若い領主の誕生と婚姻を祝って、三日三晩に渡って祝宴が繰り広げられ、領民たちも巻き込み千秋万歳と喜び合ったそうです。

 立花家に婿入りした統虎は『立花統虎』と名を改め、併せて『左近将監』(さこんのしょうげん)を名乗る事となりました。

 時に、統虎は15歳、妻となった誾千代姫は13歳であったと云います。また紹運は34歳、道雪は69歳でした。元々、紹運が武人として道雪を慕っていた経緯もあり、教育の一環も兼ねて、統虎は幼少の頃から度々、単身で立花山城へ表敬訪問に赴かされていました。それもあり統虎と誾千代姫は顔見知りで、言うなれば幼馴染でもあったようです。


 妻となった誾千代姫についてですが、この時期の立花家の事情として、道雪は隠居であり、立花家の当主は誾千代姫で、僅か7歳(数えで7歳、満6歳)で女ながら家督を継いでいました。所謂一般的な言葉を使うと『女城主』、大友氏からすると『女城督』『姫城督』となります。

 日本の歴史の中で『女城主』と形容される例は稀にみられます。しかし多くの場合、単に夫の留守居を守っていた例や、夫を失い幼い息子の代理としての活動が殆どで、他では血族が女児しか居らず「女でも嫡流だから」と、「当主(家長)だった」と主張するケースもありますが、これは家督を継いでいた訳では無く、単に「血統的な嫡流の血筋」だっただけで、嫡女としての権威性は残るものの、大抵の場合、夫が家督を継ぎ当主となってます。(坂東の公方などの例をみれば)

 誾千代姫が特筆なのは、正式な手続きを踏んだ上で家督を相続した稀有な例であるといえます。大友氏発給の文書も残っています。

 ただ当初から誾千代姫への家督相続が認められていたかといえば、そうでは無く、大友宗家からは、道雪の実家である戸次鎮連(べっき しげつら、道雪の甥)の一族から人物を選び、立花家の相続をさせる様に内示していたそうです。しかし道雪の眼鏡に叶わなかったのか、これを頑なに拒否し、自らの娘への相続を要請し、大友宗家からの許可を得ました。一家臣ながら、当時の道雪が如何に大友家に重きを成していたのか窺い知れます。


 誾千代姫は男勝りとして評判の姫であり『西国一の女丈夫』(さいごくいちのじょじょうぶ)と謂われ、女鉄砲隊を組織していたとされます。

 また後年の話ですが、この夫婦は別居した事と、子供が授からなかった事から、不仲説が囁かれていましたが、少ない資料や当時の状況などから不仲説は否定されつつあります。


 とはいえ、若い領主夫婦の誕生は、乱世に疲れ不安を覚えていた人々に喜びを与え希望に沸いたそうです。


■ 九国鳴動 三国鼎立の崩壊と軍神立花道雪の死

大友氏の筑後遠征

天正十二年(1584)3月24日

 肥前国島原半島で龍造寺家と島津家が合戦に及びました。世に云う『沖田畷の戦い』(おきたなわてのたたかい)です。この戦で龍造寺家の当主である龍造寺隆信が、島津家久に討取られた事で九州の三国鼎立が崩れる事となりました。その為大友家は島津家の正面攻撃に晒される事となります。

 大友家の当主大友義統(宗麟の嫡男)は島津家の本格的な北上に備える為、蚕食されていた筑後国の奪還を企図し、弟の親家・親盛に七千の兵を預け筑後へ攻め込ませました。

 しかし『耳川の戦い』以来、多くの勇将・知将を失った大友家の軍勢は戦に不慣れな若者が多く、筑後国の名族黒木氏の小勢にすら手を焼き、作戦は悉く失敗に終わります。業を煮やした義統は、今や切り札といえる筑前国の立花道雪と高橋紹運に出陣を要請しました。

 両将は直ちにそれに応え、五千の兵を以って筑後国へ出陣します。紹運はこの遠征の間に宝満・岩屋の内どちらかの城は、敵に奪われるであろう事を覚悟しての出陣であったと云われます。


 両将は敵地の領内を走破して早々に着陣したので、その神速果断な用兵は筑後在陣の大友将士を驚かせました。両将は豊後勢を叱咤激励して瞬く間に黒木氏の猫尾城を落とし、筑後の大半を切り従えましたが、名将蒲池鑑盛(かまち あきもり)の築いた、戦国有数の堅城・柳河城(柳川城)を落とす事が出来ないでいました。


 そんな状況の中で豊後勢の大将格 親家・親盛兄弟が突如、豊後へ帰陣するという事件が起こりました。『高橋紹運記』『北肥戦誌』によるその理由として「我らは今日まで粉骨して戦ったが、そのすべての武功は道雪と紹運に帰した。この上如何に豊後勢が働こうとも何の役にも立たず、ただ人の為になるばかりである」といった事であるらしい。両将は「豊後勢もここまで落ちぶれたか」と、嘆息する他無かったと云います。

(但し実際には、親家・親盛が豊後に戻ったのは、秋月氏が豊後侵入の気配を見せていた為ともいわれます、以下)

 また『九州治乱記』では、その時期日田に在陣していた親家が、道雪、紹運の秋月領への侵入に呼応して攻め込んだが、戦に不慣れな若年でもあった為、返って秋月軍の逆激に遭い敗退し、そのまま豊後へ帰ってしまったとされています。

盟友道雪の死

天正十三年(1585)

 柳河城に篭もっていた龍造寺家晴は城を出て大友軍と対峙しました。3万の大軍を擁する家晴に対し、将兵八千の小勢である道雪と紹運は野戦にて翻弄。鶴翼で包囲殲滅を企図する龍造寺連合軍に対し、敗走と見せかけた引き込み戦術で、伏兵による逆包囲網を成立させ、肥前勢を散々に討ち果たし敗走させました。しかし決定的な打撃を与える事は出来ません。以後も幾度か野戦で駆逐するも、遂には柳河城を落とすまでは至りませんでした。


 そうした中、天正13年6月、長い戦陣の疲れから立花道雪が発病し、9月11日に紹運と家臣に見守られ筑後国北野の陣で没する事となりました。享年73歳でした。

 死期を悟った道雪は『我が死後、遺骸に甲冑を着け、柳河に向けて此の地に埋めよ』と遺言し、更に『もし遺言を違えれば、我は魂魄となりて、必ずや子々孫々まで祟りを成そうぞ』との言葉を残したと云います。

 この遺言を巡り、立花家中の意見が割れました。此の地に遺体を葬れば、墓所を暴かれる事を心配しての事です。殊に長らく戦陣を共にした家老の由布惟信(ゆふ これのぶ、雪下)などは殉死を唱えた為、他の家臣からも「共に殉死して御供仕らん」との意見が出た程でした。

 その時、原尻宮内(はらじり くない、鎮清)という老臣が進み出て「そうであれば若殿にも自害を進めては如何か?」と言い出しました。これを聞いた者達は気色ばみますが、宮内は構わず「此処にいる方々が大殿を慕い殉死すれば、若殿は誰を頼りにすれば宜しいのか。古より死は易く生は難しと申す。何故、生きて幼主(幼君)を助け、九国の大敵を撃って、幼主(幼君)の運を開こうとしないのか」と皆に問いたと云います。(一説では、薦野増時の子・薦野成家とも)

 これを聞いた由布等は愕然としましたが、若殿である統虎を軽んじていた事を悟り、非を認めて謝罪したと云います。そして、まだ動揺する家中に対し
 「大殿のご遺骸は立花へお運び申そう。もしご遺言の如く祟らせ給うのであれば、我が由布一門にて引き受け申す」
と云って皆を安心させたと云います。


『九州治乱記』には、道雪の死に際した紹運の様子を
 『亡者の杖を失い闇夜に灯の消えたる心地なれ、中でも紹運の嘆きは大業ならず、生きては行を同じくし死しては屍を列ねんとの思いしことの空しく、心中いかばかりか思われなむ』
と、焦燥した紹運の痛ましい心情を書き記しています。

 彼の死によって大友家の筑後奪還は頓挫し、紹運は協議の上で殿軍(しんがり、でんぐん)となって道雪の遺骸を守り筑前に撤退します。この時、龍造寺を始めとする敵軍は、斜陽の大友氏を見捨てず忠節を貫いた偉大な老将の喪に服し、一切の攻撃を控えて撤退する大友諸軍を襲う者はいなかったそうです。

この時の事を、島津側の記録『鹿児島外史』
 『九月大友の柱礎、老将立花鑑連高良山に卒す。まさに五丈原の喪に等し、高橋鎮種(紹運)棺を守りて筑前に帰る。秋月の兵邀撃せず、島津軍亦(また)追撃せず。名将の喪を憐れみ、その隙に乗ぜざるなり』
と記されています。

『五丈原の喪に等し』とあるのは、支那の史書『三国志』に登場する、蜀漢の丞相「諸葛亮孔明」の末期の地を指します。国に尽くした孔明の死と蜀軍の見事な退陣を表して、道雪の死と大友軍の退陣もまた見事であったと評しています。

しらべ

(…蜀軍は、魏軍に退陣を襲われてますが…情緒だよね日本人はロマンチストなんスかね)

 道雪の死によって、立花家は実質的に、娘婿である統虎(宗茂)が継ぐことになります。

大友宗麟の上坂と戦国の悍馬(かんば) 筑紫広門

宝満城の失陥 筑紫広門の蠢動(しゅんどう)

ひとりの偉人の死が、時代の流れを変え、また速める事があります。

天正十三年(1585)
 この時期、紹運の妻宋雲尼は夫紹運が筑後遠征中で、留守居の家中の切り盛りを高橋家の本城である宝満山城で行っていました。

 立花道雪が陣没した、翌9月12日の夜半、突如として宝満山城に火が放たれました。修験者の姿に身をやつした筑紫広門(宋雲尼の妹婿)の兵三百が、峰を登って城に潜入したのです。

 宝満山城に居た留守居の城兵は小勢であり、また放火の前に筑紫が陽動の兵を牽制する為出陣した為混乱しました。留守居を任されていた城将伊藤源右衛門と花田加右衛門は、直ちに宋雲尼と統増兄妹を神楽堂に避難させ、僅かばかりの一隊を率いて宝満山本城へ駆け上るも、筑紫の別働隊が既に本城へ入り、そこから鉄砲を激しく放った為敗退しました。

 筑紫の兵は更に、神楽堂へ篭った宋雲尼母子を捕らえようと迫った時、本城の異変を察知した岩屋城の守将屋山中務(ややま なかつかさ、種速、たねはや)が率いた一隊が駆けつけ、交戦しながら母子を救い出し、無事岩屋城へ帰還しました。


 筑後国にいた紹運は、宝満山本城の失陥した13日、北野陣中にて帰陣の支度をしていましたが、宝満山のある方角が火の手で赤く染まっているのを遠望して「さては筑紫・秋月の手によって、宝満・岩屋は既に陥ったものとみえる」とみてとって、一隊を分け物見と救援に赴かせました。そして本城失陥に驚きはしたものの、遠征前から想定していた事もあり、宋雲尼と子等の無事を知ると安堵したと云います。

 紹運帰陣後、高橋・立花両家は四十九日の喪に服しました。そして道雪没後の立花家は、婿養子となっていた紹運の子統虎が正式に家督を継ぐ事となります。

筑紫広門について

ここで筑紫広門(つくし ひろかど、ちくし)について少し補足をします。

 筑紫広門は、肥前国勝尾城(ひぜんのくに かつのおじょう)城主で、養父郡(やぶぐん)、基肄郡(きいぐん)を本拠とし、他筑前国にも所領を持つ領主でした。(勝尾城は現在の佐賀県鳥栖市周辺)秀吉の九州平定以降は、小早川隆景の所領となり、基肄郡・養父郡を併せて、通称「基肄養父」(きやぶ)(きいやぶ)とも呼ばれています。

 広門は先述した「毛利の九州侵略」に組し、毛利敗退後は大友氏に降っていました。その際、妻室として大友家臣・斎藤長実の娘を娶る事となります。

 故に高橋紹運と広門は、斎藤家を介して相婿の親戚関係にあり、姉の宋雲尼を娶った紹運は義兄、妹を娶った広門は義弟という事です。

 しかし天正六年(1578)の『耳川合戦』に於ける大友氏の敗戦により、広門は再び大友氏に叛旗を翻し、近隣の秋月種実と共に、肥前国の龍造寺傘下として大友氏との抗争に明け暮れる事となります。領地を接する高橋家と筑紫家の抗争は、家臣領民を問わず、多くの親戚縁者が交わっていた事もあり凄惨を極めたと云います。

筑紫広門の謎兵器『卵火』 戦国のロストテクノロジー

 この時期の事ではないですが、今回の宝満城の乗っ取りにも使用された可能性もあるかと思い記載しておきます。

 天正十二(1584)の話になります。この年の2月7日(3月7日とも)、筑紫広門は家臣に茶売りの商人に偽装して岩屋城へ潜入させたといいます。男は巧く城内へ潜入すると、城のあちこちに『卵火』(たまごび)なる物を置いて廻り、何食わぬ顔で山を駆け下り、近隣の天拝山にある武蔵城へと駆け込み、城将帆足弾正へ報告しました。弾正から報を受けた広門は、太宰府へ出陣の用意をしたといいます。

 夜半になり、風が強まり、岩屋城のあちこちに設置された『卵火』が出火し、岩屋城の建物は紅蓮の炎に包まれました。岩屋城兵も夜半の出来事で慌て混乱しました。広門はこの騒ぎに付け込み、岩屋城下の観世音寺辺りに潜ませた軍勢で城へ攻めかかったといいます。

 この時、岩屋城代の屋山中務は、よく城兵を督促し敵に備え、小勢と混乱の中で攻め上がって来た筑紫勢を蹴散らしたといいます。この時、宝満城へいた紹運も、すぐさま手勢を率いて駆けつけ、筑紫軍にあたった為、筑紫勢は支えきれず多くの死傷者を出しつつ敗走しました。

 岩屋城の火は、翌8日の早朝まで燃え続け、殆どの建物は消失し、更には城下の太宰府天満宮にも飛び火して神木『飛梅』も焼かれたそうです。


 この謎兵器『卵火』ですが、「時限式発火装置」だと考えられています。鞠の様な球体の中に導火線の様なもので火種を詰めたか、単に火種を詰めて置き、熱が時間経過で発火する初歩的な仕組みなのではと考えられてます。

何せ、存在は文書で残されていますが、実物は現存していませんので…想像です。

…最悪、アニメ「未来少年コナン」のハイハーバー編で、コナンと爆弾魔のおじさんが、インダストリアの船を沈めた手製の時限爆弾がありましたが、そんなイメージなんじゃないかと思ってます(笑)

関白 羽柴秀吉の『惣無事令』

ここで少しばかり、この時期の天下の情勢を説明します。

 天正十三年(1585)までの中央情勢は、『本能寺の変』(1582)で横死した織田信長の死後、叛徒明智光秀を討った羽柴秀吉が権力を掌握しつつありました。

 天正十二年(1584)には、秀吉は織田家の重臣柴田勝家を屠り、名実共に信長の後継勢力となります。また信長死後、織田家の領土を強奪していた三河国の徳川家康と対峙し、大局にまったく影響しない局地戦での勝利を威武する家康に対し、位攻め(くらいぜめ)で終始圧倒した秀吉が政戦共に完全勝利し、和睦を挟んだ後、名実ともに徳川を降しました。家康が早々に秀吉に屈服したのを契機に、四国の長宗我部氏、紀州の雑賀・根来衆、北陸の佐々成政、坂東の後北条等の反秀吉包囲網は手脆く瓦解、天正十三年(1585)には、四国の雄長曾我部氏を降し、同年7月11日には関白宣下を受けています。


天正十三年(1585)10月、
 関白羽柴秀吉は天下へ向けて『惣無事令』(そうぶじれい、所謂私闘禁止)を発布しました。そして傘下の佐々成政、蜂須賀家政を九州へ遣わして、大友宗麟、義統父子と共に薩摩国の島津義久に臣従を勧め、併せて大友と島津の和睦を提示したとされます。

 島津氏の攻勢に手を焼いていた大友氏は、この提案をやむ無しと捉えましたが、島津氏は同意せず、「寧ろ大友氏の攻撃に対するやむを得ない正当な防衛である」と抗弁し従いませんでした。

 『豊薩軍紀』には、秀吉傘下の黒田孝高(黒田官兵衛)が、島津氏と諸豪との離間工作をしたとされ、同年冬には、本願寺教如を九国へ遣わし工作させたとあります。しかし島津傘下にあった国人諸領主の多くは、服従を潔しとせず寧ろ激昂し、秀吉を身分卑しい成り上がり者と侮蔑さえしたと云われます。

管理人しらべアイコン管理人『しらべ』の感想

 一般的にはこの工作活動が功を奏し「島津は戦う前から負けていた」と云う様に書かれる事がありますが、実際には後の『岩屋城の戦い』『立花山城の籠城戦』以降、島津氏が肥後国まで退き、敗色濃厚になるまで効果は薄かった様にみえます。

乱世の生き残り戦略 明暗を分けた秋月種実と筑紫広門

天正十三年(1585)

 上記の如く、中央の羽柴秀吉の九州介入もあり、秀吉の九州侵攻の可能性が高まるにつれ、在地緒将は九州制覇目前の島津氏に付くか、関白秀吉方に付くか思いを巡らせていました。

その様な情勢の中、いち早く行動を起こしたのは、筑前国の秋月種実でした。

 秋月氏は、長年大友氏と抗争してましたが、情報収集を重ね、中央での秀吉の権力基盤が整いつつある事を認識していました。また長い戦禍に膿んでいた為、高橋紹運と誼を結んでおこうと、絶世の美姫との呼び声高い娘(竜子・龍子?、後の城井朝房の室、更に後の相良頼房正室)を紹運の次子統増に嫁がせようと話を進めたのです。


 しかし、これに驚いたのが肥前国勝尾城主の筑紫広門でした。秋月氏とは長年同盟関係にあり、共に戦ってきた仲でしたが、この話を伝え聞くと直ちに家臣を集めて評議に及びました。

 「もし秋月が高橋氏と合一しようなら、きっと当家は攻め滅ぼされるであろう。国家の安危はこの時であるから、皆の意見を聞きたい」

と家中一同に申し渡しますが、平伏するばかりで一向に妙策が出てきません。暫くして筑紫六左衛門という士が進み出て

 「この一大事、尋常な事では敵いません。思い切った謀事をとよくよく考えました所、ひとつ方法があります。大変恐縮ながら、姫君を某にお預け下さい。某が姫君を岩屋へお連れ申し、紹運殿に直談してみましょう」

 「紹運殿は情深き人と聞いておりますれば、万に一つ巧く運ぶかもしれません。もし承知なき時はその場で姫を刺殺し、某も切腹してあの世へお供致します。この事が巧く運ばなければ、ご当家は滅亡、そうなれば姫君の運命もまた逃れられない事です」

 「秋月は島津に誼を通じていて、紹運殿は大友氏の忠臣です。双方共に話を進め難い縁談なれば、某が今姫君をお連れ押しかけたら、紹運殿は必ず対面される事でしょう。姫君は世に優れた御容貌ですから、よもや眼前で見殺しにはしないでしょう。とても逃げられない運命です、是非に決行して頂きたい。当家にそれ以外の道はありません」

と言ったので、広門を始め皆賛同しました。広門は六左衛門を膝元に呼び寄せて

 「『死地に入って生を取る』太公望の兵書にある秘密は、この外に手段はあるまい。よくぞ申してくれた。我が寵愛する娘なれど、国家の為、先祖の為にお前にあたえよう。良き様に取り計らってもらいたい」

といって奥へ引きこもりました。

(つづく)

筑紫広門の離反について補足

広門の離反については、上記の状況の他にも理由があったようです。
 一つは、上記、同盟してた秋月氏への不信。
 二つは、天下の情勢を読み、中央勢力の秀吉と島津氏を比べ、勝ち組への鞍替え敢行。
 三つは、紹運と広門の妻が姉妹であり、家中・領民も血縁が多く、和平を望んでいた事。
 四つ目が最も有力で、龍造寺隆信の嫡子龍造寺政家への不信です。

 かつて大友氏の『耳川合戦』敗戦で伸張した肥前国の『龍造寺隆信』は、筑前国の大友領へ侵攻した際、立花道雪と高橋紹運と対峙しました。鍋島を始めとした龍造寺傘下の緒将は、積年の恨みもある小勢である筑前の大友勢に対し、殲滅を提案しました。しかし隆信は聞き入れません。

 軍議が紛糾する中、広門はするすると隆信の許へ近づき耳打ちしたと云います。隆信は『我が意を得たり』とばかりに頷き、広門は密かに行動に移しました。広門は大友陣の道雪の許へ訪れ、電撃的な和睦を締結し、隆信は戦わずして筑前国の西半国を手に入れるに至ります。

 これ以降、龍造寺隆信は生前の間、他の緒将の言より広門を信頼し重用したと云います。しかし隆信が島原で敗死し、嫡子の政家が家督と継ぐと、鍋島等の讒言によって政家は広門を遠ざける様になります。それ以来、外様では秋月氏が重用され、筑紫は疎外される様になりました。

 これにより政家を始め龍造寺氏に不審を募らせていた広門は、上記の経緯も合わさり、更には島津氏への質人をも拒絶し、仇敵との和合と秀吉への賭けに出たのだとされます。

 大友氏以外の九国の緒将が島津氏に靡く中、広門の見識、勇気と決断力は、矮小とは言えない中々の傑物だったと言えます。色々言われがちな人物ですが、家中領民にも慕われていたそうです。

筑紫の姫 加袮姫 ~戦国の押し掛け婚~

(つづき)

岩屋へ出立する当日、
 供に大勢は無用と、六左衛門の他は、「織屋」という局と、「沖尾」という腰元が選ばれました。

広門夫妻が表へ出れば、姫君は父母の前で淑やかに着座しました。広門はこれをを見て

 「我が子ながらこのように美しく育った娘を如何に国家の為とはいえ、敵とも味方とも判らぬ岩屋へ赴かせるこの親の冷酷さよ。さぞ無情と思うであろう」

とはらはらと涙を流すと、気丈な姫は畏まって、

 「これは父上の仰せとは思えません。妾が男児であれば、戦場で先陣となり骸を山野に晒す事も武士の習わしでありますのに、女に生まれたばかりに深窓の内に養われ、十六の今日まで何のご用にも立てず残念に思っておりました。此度はからずも仰せを蒙り、国家の為に岩屋へ参る事は本懐であり大慶の事でこれに過ぎる事はありません。もし不幸にして紹運殿のご承知なければ、かねて頂いております守刀で潔く自害致しましょう。人に掛かって恥をかくことは致しませんからどうかご安心なさってください」

と潔く言って、お暇を告げたので広門はただ泣くばかりで言葉をかける事もできなかった。姫は「時間が過ぎてはいけません。輿を…」と、織屋と沖尾に命じ岩屋へ出立しました。 


岩屋に着いた六左衛門一行は、取次ぎを以って

 「筑紫広門公の姫君を連れて、家臣筑紫六左衛門が参上致しました。お願いの筋が御座います。何卒遭って下さいます様、恐れながらお願い奉ります」

と申し入れました。伝え聞いた紹運は

 「はてさて、広門の娘が来たとは合点が行かぬ事である。なれど、わざわざ姫君が来られたのであれば対面せぬ訳には参るまい」

といって書院へ通す事としました。年の頃十六、七の娘が、華やかに装い、恥ずかしそうに頬を染め、両手をついて、

 「筑紫上野介の娘『加袮(かね)』と申します。紹運さまに於かれましては早速にご対面下さり有難く存じます。今日は、不躾ながら妾のお願い事で参上いたしました。実は女の口から申し上げ難い事なれど・・・」

と言上しますが、その先は俯くだけで言葉が出てきません。加袮姫の頬を伝い涙がはらはらと流れるのを見て、「御免仕ります」と、見兼ねた六左衛門が合間に入って事の仔細を述べました。


 仔細を聞き終わった紹運は『(統増の)嫁にしてくれ』という前代未聞の押し掛け姫に呆れ、また当惑しました。言葉を失う紹運に、六左衛門は膝を進め

 「紹運公のご当惑は御尤もです。なれど只今申し上げました通り、ご当家と秋月殿が合一されましたなら、我が筑紫家の滅亡は必死。その時討死します命を只今捨て、姫君を刺殺し某も切腹しましょう。御承知なければ、恐れながら御縁の端を穢させて頂きます」

と、今にも事に及ぼうとしました。紹運は、姪でもある気丈な姫と、忠義の士である六左衛門を死なせるのは不本意であると思案します。秋月氏との約を守るべきか、家を思う姫と忠義の士を救うべきか。…そして時は過ぎ、六左衛門は今はこれまでと姫に目配せすると、姫もそれを察し身拵えにかかりました。

 紹運、是非もなく、今はただこの者達の命を助けようと、「兎も角、こちらへ」と、自ら姫の手を取り奥の間へと導きました。そして紹運は

 「話の筋は承知致しました。貴女の家を思う孝心と、主人を思う貴殿と御女中の義心に私も心を動かされました。元々、貴家と当家は縁戚の間柄です。乱世の習いとして敵味方として戦ってきましたが、この上は貴家と御縁を結び、両家の和平を計らいましょう」

と言ったので、一同感激のあまり泣き崩れたといいます。


 この吉報はすぐに勝尾城へ知らせられ広門夫妻は嬉し涙にくれたといいます。中でも広門夫人は、紹運夫人『宋雲尼』の実妹で斉藤氏の出であった為、喜びはひとしおであったそうです。また、家中領民にしても、元々隣国という事もあり、親戚・友人・知人が多く、両家の和は望まれていたものでした。


天正十四年(1586)2月(4月とも)

 吉日を選び、加袮姫は岩屋城へ輿入れしました。統増は15歳、加袮姫は17歳だったといいます。この時、高橋・筑紫家の家老・中老の子を始め、証人として取り替わし両家の和睦を正式なものとし、筑紫氏の城となっていた宝満山城も両家の相城という事になりました。



 しかし皮肉にも、この婚姻の成立は、秋月氏に脅威を与える事となりました。秋月種実は、筑紫広門が抱いた脅威を同じく感じ取り、後に薩摩の島津氏に筑紫攻めを画策するに至ります。

宗麟上坂

天正十四年(1586)3月

 秀吉の九州介入以降も島津氏の圧力は強まり、豊後攻めの気配すら窺っていました。そんな不穏な情勢の中、紹運の主家である大友氏に動きがありました。

 昨年、最も頼りとした老臣道雪の死も影響してか、隠居していた大友宗麟は重い腰を上げ、本州で確固たる勢力を築きつつある関白秀吉に直接の接触を図りました。

 宗麟は単身上方に上坂、海路から和泉堺へ上陸し、4月5日には羽柴秀吉に首尾よく謁見し九州の内情を語り、島津の横暴を訴えました。
 
 九州の名族の来訪に秀吉は上機嫌で迎え、落成間もない大坂城で自ら手を引き宗麟を案内し、名物の茶器の披露から始まり、寝所、浴室、黄金の茶室まで披露したといいます。天下の時勢が秀吉にある事を十分理解した外交上手な宗麟は、大仰に驚いてみせ秀吉の関心を引いたそうです。そして秀吉から『島津征伐』への十分な確証を得たといいます。

またその際、宗麟は秀吉に対し

 「朝(あした)には秋月氏に味方、夕(ゆうべ)には龍造寺に心を合わせるといった節操無き者の中にあって、立花道雪と高橋紹運の両名だけは、武名を惜しみ、義を尊び、恥をしる頼みになる武将であります。どうか御家人となし給わりますよう」

と語って紹運父子を推挙しました。そのため秀吉は紹運と道雪の養子統虎を直参とみなし朱印状を与えています。これにより、立花家と高橋家は、主家大友氏同様の関白秀吉の家人となりました。


 大坂城を退去した宗麟は、その足で秀吉の弟秀長にも面会しています。そして歴史的にも貴重な言葉として「内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(秀長)存じ候、いよいよ申し談ずべし」との言葉を交わしています。これは当時の羽柴家(後の豊臣家)の内情を伺い知れる貴重資料とされています。また宗麟はこの他にもこの大坂来訪で見聞した事を素直な感想と共に国元の家臣へ伝えており、これ等もまた当時の羽柴家を知る資料となってます。


一方、島津義久もこれに前後して、家臣鎌田政近を上坂させて秀吉と交渉させていました。

 秀吉は島津氏領有分として薩摩国・大隅国・日向国半国・肥後国半国・豊前国半国(筑後国?)とし、残りの筑後国は大友氏へ返還、肥前国は毛利氏へ、筑前国は秀吉直轄領としての国分け案を提示しました。

 秀吉の提示した国分け案は、織田信長生前の国分け案と変わらず、島津氏にはとって実状にそぐわない余りに理不尽な案でした。すでに九州統一も目前に迫った今の島津氏の版図からすれば、到底受け入れる事など出来よう筈もありません。

 激昂した島津氏は、秋月氏の提案を受け入れる事となります。これにより筑紫氏の離反を口実とした島津氏の北伐が開始される事となります。

管理人しらべアイコン管理人『しらべ』の考察

 史家の方達に於いて『秀吉が紹運・統虎親子を欲しがっていた』『秀吉に引き抜かれた』とか言われる所ですが、実際の所は宗麟の政治的な駆け引きであったかと思われます。

1つが筑前国の自治権の問題で、もう1つは高橋親子の所領問題です。

 博多湊を含む筑前国が大友氏に残る見込みは皆無であり、豊後国で高橋親子に報いる所領を確保が出来ない以上、直接秀吉の直参としておく方が大友氏にとっては都合が良かったのではないでしょうか。

 吉弘一族は大友氏と婚姻関係が濃い一族でしたので。準一族的な吉弘氏を分国大名の様に家を分けても利する事が多いと判断するのが自然と考えます。

■ 島津北上と紹運の決意

島津氏の筑紫征伐

島津家の当主・島津義久は、豊後攻めか筑紫征伐か、逡巡して中々決断を下せませんでしたが、

天正十四年(1586)6月中旬、

 島津氏は、島津忠長を総大将とする本隊2万の軍勢を北上させ、筑・肥(筑前・筑後・肥前・肥後)の諸氏の参陣により軍勢は5万(諸説あり、6万とも)に達しました。

 同年7月6日、島津軍はまず寝返った筑紫広門の諸城を席巻し、筑紫軍も勇戦しましたが、広門の嫡子・晴門(広門の弟とも)が討死にした事によって戦意を喪失し、島津軍に降伏しました。この際、降伏した広門は、かつての盟友秋月種実により島津氏に助命を嘆願され命永らえる事となったと云います。

此の後、広門とその妻(宋雲尼の実妹)は幽囚の身となり、筑後国大善寺へ移送されました。

この時広門は

 『忍ぶれば いつか世に出ん 折りやある 奥まで照らせ 山の端(は)の月』

と落城の際、詠んだと云われます。これを聞いた人々は『昔は広門、今は狭門(せまかど)』と嘲笑したといいます。しかし嘲笑した者たちは、粘り強い広門の武将の矜持を後に知る事となります。      

宝満城の動揺 

先述の筑紫広門の降伏に伴い、高橋家と筑紫家の相城となっていた宝満城でひとつの騒動が起こりました。

 宝満城は両家の相城という事もあり、あえて守将となりうる人物が置かない状態で、兵の多くは加袮姫に随従した筑紫氏の者が多かったといいます。

 宝満城に在城していた高橋家中の吉野源内は、筑紫家中の動揺を危惧して、すぐ様、岩屋城へ急報し紹運に「筑紫家中の者を抑える為、宝満城へは統増様を登城させられて下さい。」と進言しました。紹運は吉野源内から宝満城の様子をつぶさに聞きながら、まずは筑紫家中の心底を見定める為、陣九郎兵衛という家臣を宝満城へ遣わして、統増登城に対する彼らの反応を探らせる事にしました。

筑紫家中の主だった者たちと協議の結果、

 「統増公は、我らの主君広門公の娘婿であり、主君のご子息となられた方に何で二心を抱きましょうか。御登城されれば統増公を主君として仰いで城を守ります」

と忠誠を誓い、九郎兵衛は岩屋城へ立ち返って、事の次第を告げました。

 しかし、筑紫家は乱世の習いとはいえ、表裏定まりが無い家柄であった為、若年の統増を宝満城へ送るには危惧がありました。紹運は家中の者を集め協議しますが、事が重大なだけに、なかなか意見が定まりません。

この時、伊藤外記という者が進み出ていうには

 「『百貫に買いたる鷹(たか)も鷺(さぎ)に合わせてみよ』という諺(ことわざ)もあります。この際、思い切って子鷹(統増の意)を放って(手放して)みては如何でしょうか」

と説いた。この至言にようやく紹運も決心をつけたといいます。


 7月12日夜半、統増と加袮姫夫妻に、陣九郎兵衛、北原伝之丞、中島采女ほか、屈強の兵二十余名を添えて宝満城へ登城させました。ところが、早くも島津軍の先遣隊が宝満城へ使者を遣わして「筑紫広門は既に降伏し、その諸城もことごとく開城した。この上は当城も早々に城を明け渡されよ。さすれば城兵の命はお助け申そう。さもなくば、直ちに攻め破るが如何に」と勧告してきました。

 これを聞いた筑紫家中は、たちまち心変わりする者が出てきて、この際、統増を討ち取り島津軍に内応せんとする気配が現れました。島津軍との決戦の前に、紹運の危惧が現実となりつつある中、急を要する鎮圧の任に、紹運は伊藤源右衛門という家臣を呼び出しました。

 この伊藤源右衛門という人物は、その昔、高橋家中で起った謀反の芽を事前に積んだ忠孝の家臣でした。しかし紹運の筑後遠征の時、宝満城の守備を命じられていましたが、筑紫氏の強襲にあい宝満城を奪われる失態を侵した人物でした。殊に責任を感じた源右衛門は自害しようとするも紹運に止められ、一時は出奔も考えましたが一族の伊藤外記に諌められ、今は日々を嘆く事で過ごしていました。

 源右衛門の苦悩を知る紹運は、この大事を任せられるのは彼を置いて外に無いと思い定め、伊藤源右衛門に命を下しました。雪辱の機会を得た源右衛門は、伊藤外記、高橋山城、三原右馬助、有馬伊賀、今村五郎兵衛、山中美濃ら屈強の士十余名と与力の兵を連れて宝満城へ登城しました。


 源右衛門等が宝満城の神楽堂まで来ると、城門は硬く閉ざされ中に入る事ができません。一行が進退窮まった所、源右衛門が思い切って、筑紫家中で旧知の帆足善右衛門に城門の外から呼び出し「統増殿をお迎えに来ましたので、早くこの門を開けて下さい」と言うと、帆足は門の櫓上より「自分の一存では計らいかねるので、評議した上で開門致します」と答えます。

 源右衛門は帆足では埒があかぬと見てとり「さては質人(人質)を捨てられるおつもりか」と鋭く問い詰めます。この時、帆足善右衛門の一子は高橋方へ人質として置いていたので、冷や汗をかきながら櫓の下へ降りてきて門を少し開けると「この場で少しお待ち下さい。今すぐ相談して参ります。決して悪いようには致しません」と言って奥へと走り出しました。この時、家中でも強力で知られる有馬伊賀が、すかさず門を押し開けると、一同どっと中へ飛び込み、そのまま神楽堂へと押し入ると、筑紫家中の評議の最中でした。


 源右衛門は「統増公をお迎えに来ましたので、御一同には何の心配もありません」と安心させながするすると中に入ると、主将格の筑紫良甫(つくし よしすけ)に飛び掛り、取り押さえ、首に刀を押し当てて問うた

 「貴公等は紹運公に統増公の登城を願い、主君として迎えておきながら、薩軍(島津軍)の脅しにたちまち屈して変心し、統増公を討って敵に降り、卑怯にも身の安全を計ろうとは、何と大逆無道の者たちであろうか」

と憤怒の形相で睨みつけました。高橋家中の有馬、今村、高橋等もまた、先手を取った事もあり、それぞれ相手を取り押さえ、返答次第で首を薙ぐ気構えをみせました。

 余りの出来事に筑紫家臣が戦意を喪失する中、旗崎新右衛門、田山平六之介という者が進み出て、

 「我々は決して心変わりは致しません。薩軍に降るなどとは全くの誤解です。我々はあくまで統増殿を奉じて敵と戦う用意をしています。今後は何事もよく相談して参る事と致しましょう。我等に異心ない証拠として、ただいま質人を差し出しその証と致します」

と誠意を持って説いたので、事は無事治まり、伊東源右衛門等は質人たちを宝満城の上宮という所へ留め置き、統増殿を守護して宝満城へ留まる事となります。

こうして一時的ながら筑紫家中の反乱は未然に鎮圧するに至りました。

『名将言行禄』に、この頃の逸話とする話があるので紹介します

 紹運は岩屋城にて籠城を決断しましたが、ひとつ不安がありました。宝満城は今や筑紫家との相城であり、既に島津に降伏している筑紫家の家臣団への危惧がありました。一旦は、紹運の次子統増を宝満城へ送る事で、筑紫家臣の動揺を抑えていましたが、島津の調略もあり再び筑紫家臣団は動揺したのだと云います。

 その様な状況の中、紹運はひとりの家臣を呼び寄せ語り掛けたと云います。
この時、紹運は家臣の杉山山城(三原氏)に対し『山城殿』と『殿』づけで呼び寄せた為、困惑しながら理由を問うと

 「この城が無事であるのは、もはやこれより二十日の間に過ぎぬ。それ故、其方に頼みたい事があるのじゃ」

との言である。困惑した山城は傍に控えている家老の屋山中務に向かい

 「『山城殿』と殿よりお呼びかけになり、何ともはや思いもよらぬお言葉を賜って、気も動転いたす思いでござる」

と言ったきり言葉が出ませんでした。その時紹運は

 「その方の家は鎌倉以来人に知られた系譜で、祖先を辿れば我が家よりも上の家柄である。今は主従の間柄ではあるが、以前より同輩の様な親しみを覚えておった。大切な用を頼むに当たって、千町、万町の知行を褒美として遣わすと言った所で、今更虚しき絵空事にしか為らぬ。そこで、昔同輩であった頃、互いに交わした挨拶通りに『山城殿』と『殿』をつけて呼ばせて貰い、其方を軽んじてはならないという我が心を表わし、せめて心ばかりの賞としたい所存なのだ」

と言った為、主の深い配慮に山城は感涙し「何事なりともお受け申し上げます」と平服しました。そこで、紹運は

 「されば申し付ける。弥七郎統増を敵中へ置くは、我が死出の障りとなる。故に、其方敵中へ出向いて統増を連れ出し、宝満城へ引き取るか、さもなくば刺し殺して下さらぬか」

 杉山山城は心を込めて、この申し出も受け、遂には紹運の意の如く、見事に統増を奪い返し宝満城に立て籠りました。

杉山山城等の働きにより、後顧の憂いを払った紹運は、岩屋城に於いて見事にな散華を迎える事となります。

紹運の決意 763名の勇士

天正十四年(1586)7月12日、

 筑紫氏を降した島津軍は、高橋家の所領・御笠郡に侵入し岩屋城を包囲します。

紹運は島津軍の侵攻前に家中の者達を呼び集め

 「自分はこの岩屋城で島津軍を迎え様と思う。島津の大軍を前にして多年住み慣れたこの城を放棄すれば『風声鶴唳を聞き、居城を遁れる』もので、武士のする事ではない。義の為に死せる事、武士の本懐である。宝満籠城の策もあるが、高橋・筑紫の寄り合いであり兵の和を保ち難い」

 「運強ければ死地にあっても生き、運弱ければ生地にあっても死す。宝満には統増に人数を添え老幼婦女子・病人を退避させよ。自分は最後までこの城に留まり、関白殿下の援軍を待つ所存である。援軍が間に合わなかった時は、それまでの運命であったと思わなければならない」

 「また、次の者たちは籠城に加わる必要もない。一つに、籠城に賛成しかねる者。二つに、両親に男子一人の者。三つに、兄弟の内ひとりは家名を守るべし。この考えに不賛同の者は、遠慮無く城を去るがよい」

と決意を露わにし、家中の将士から一人の離反者もなく衆議は決しました。



 一方、立花家を継いでいた統虎は、籠城の不利を悟り、紹運の許へ老臣・十時摂津(ととき せっつ、十時連貞、ととき つらさだ)を遣わし、堅城の宝満または立花山城に退くことを提言させました。

紹運は立花家の使者・十時摂津に対し

 「事ここに到り、一軍の将足る者が一所に篭もる事は良策に非ず(あらず)。たとえ薩軍(薩摩島津軍)五万とはいえ、この紹運命の限り戦えば、十四・五日は支え、寄せ手を三千ほど討ち果たすは出来よう。島津勢鬼神とはいえ、此処で三千の兵を討ち果たせば、立花へ到る頃には手強き働きをする事は出来まい」

 「また、立花城は名城であり軍勢も多く、たとえ攻められても二十日の間で落ちる事はあるまい。かれこれ一月程も防戦すれば、中国からの援軍が渡海してこよう。さすれば統虎の運も開かれ、この紹運の死も無駄では無くなる」

と言ったので、使者の十時摂津は返す言葉も無くうな垂れると、高橋家の老臣・屋山中務が進み出て

 「殿は統虎殿のお諌めに従われて、速やかに立花城にお移り下さい。当城は今まで私が城代として預かって参りましたので、某一人が踏み止まって防戦し、力尽きた時は城を枕に討ち死に致します」

と進言しました。紹運は中務の話を聞き終わると、はらはらと涙を流し、

 「今に始まらぬそなたの忠勇、この紹運心魂に徹しておる。なれど、そなた一人が死んだとて島津は引き上げまい。またそなたのような忠臣をどうして見殺しにすることが出来ようか」

と言ったので、摂津は為す術無く、紹運の認めた(したためた)書状を持って立花城に帰城しました。以下は紹運が十時摂津に託した書状である。

『小野家文書』(原文、漢文)

摂州(十時摂津)帰られ候条、一書申入候、岩屋籠城手当之事、悉く皆相調い(みなあいととのい)候えば、良く心安く候、其の表の儀は、兼ては老臣の諫めを破らずと言えども、拙者(紹運)運の困窮に達し候うえは、其の事、旦夕(たんせき、今日、明日)に迫り候処、摂州物語に承りに及び、大慶これに過ぎず候、宝満の事は兎も角、統虎(宗茂)は守城に屍をさらし、殿下(羽柴秀吉)の祐(たすけ)を待つべき時に候、然る(しかる)に三河守(薦野三河守増時)、和泉守(小野和泉守鎮幸)同等の諫言、惣衆(そうしゅう)の肝入(きもいり)、彼此(かれこれ)君臣三方の和、相調い(あいととのい)、祝着之至り、何事か是にしかず如かず(しかず)、偏に(ひとえに)先考(先公、先代道雪の意)御弓箭(ごきゅうせん)之名誉に候、入道(紹運)が死出のの山路、潔白たるべく候、猶折々(なおおりおり)の調略、御油断あるべからず候、薩州勢(薩摩島津)、早筑後路にかかり候由、立花への通路も今明日の間と存じ候、細々(こまごま)摂州より申さるべく候、実に再会を期せず候、恐々謹言

高橋主膳 書判

七月八日
森下備中どの
原尻左馬助どの
内田壱岐入道どの
格御宿所

原文『小野家文書』(原文、漢文)
参考『筑前戦国史 増補改訂版』吉永正春著 
参考『筑後河北誌』柳勇著

 十時摂津に託された書状は、直ちに統虎へ手渡され、併せて摂津により紹運の決意と心情が報告されました。統虎をはじめ立花家中は、統虎の未来と立花家中の面々にその後見を託した紹運の想い哭いたと云います。


 紹運の決意を知った立花統虎は、立花の家督を継いだばかりで、まだ馴染みの薄い立花家の将士に懇願し、志願した吉田右京をはじめ二十余名あまり(一説では30余名)を岩屋城に派遣する事となります。

立花からの援兵が岩屋に着き、紹運へ目通りする事となりました。しかし紹運は

 「ご厚意は有難いが、兵糧のみで結構である。どうか立花へ帰ってもらいたい」

と拒絶したといいます。しかし吉田をはじめとした一同は、はらはらと涙を流し

 「自ら望んで参ったものを、何の面目があってこのまま帰城できましょうか。お許しなくば我々はこの場で腹をきって果てるまでです」

と言って、あわや実行に及ぼうとしました。彼等の心意気に感じた紹運は、涙と共に、その志を受け入れたそうです。彼等立花家の援兵は、岩屋城落城の日、ただ一人も自らの持ち場を一歩も退く事無く戦い、そして壮絶な最後を遂げたとされます。




後に徳川の世になって『立花宗茂』と名乗っていた統虎は、この頃の事を追懐して

 「あの折り、自分は立花家に入って日が浅く、その家臣団は先代道雪公の遺臣であった。死の分かった援軍に行ってくれとは中々か言い出せなかったが、吉田右京が進み出て『国に報いるのに、義あるのみ』と言って志願してくれたので、他の者達も申し出てくれた。自分の生涯の中で、この時ほど嬉しかった事は無かった。それ故、吉田達の忠節に対して自分は子々孫々に到るまで報いなければならないのだ」

と語ったと云います。またその生涯の内、人と楽しく歓談をする中でも、吉田右京の名が少しでも出ると、人目を憚る事無く涙を流し悲しみに沈む事のが常だったそうです。


 ここに岩屋城への籠城する将兵は、主将高橋紹運以下、高橋家の士分及び雑兵と、立花家の援兵を含め763名と決まった。

岩屋城の兵力配置

岩屋城籠城時の兵力配置を掲載します。
 以下は『筑後河北誌』より引用、

スクロールできます
持ち場部将兵員
岩屋城甲の丸(本丸)高橋紹運150名
虚空蔵台(大手門)こくうぞうだい
(本丸手前付近)
福田民部少輔50余名
虚空蔵台南の大手城門(南門)
(二の丸手前付近)
伊藤惣右衛門70余名
虚空蔵台西南の城戸
(三の丸手前付近)
屋山中務少輔100余名
風呂屋谷の砦(ふろやだにとりで)
(二の丸手前、側面北側)
土岐大隅50余名
東松本の砦(ひがしまつもととりで)
(中の丸(二の丸、三の丸の中間)の(側面南側))
伊東八郎80余名
秋月押さえの持ち口
(本丸側面、南側)
高橋越前50余名
水の手上の砦
(本丸背面、北東)
村山刑部27名
百貫島より西北山城戸
(本丸側面、本丸よりやや北西側面)
三原紹心80余名
山城戸
(本丸側面、北、上記百貫島砦の右側)
弓削了意70名
二重櫓
(中の丸、二の丸と三の丸の中間)
萩尾麟可
萩尾大学
50名
甲の丸(本丸、搦め手)立花家援兵20余名(一説では30余名)
持ち場部将兵員
参考 『筑後河北誌』 岩屋城兵力配置


 以上で、800名程の人員となっている…ってあれ763名ではない?(汗)
というわけで追記情報

 以下『筑前戦国史 増補改訂版』吉永正春著より引用

  • 『九州治乱記』558人
  • 『九州軍紀』600余人
  • 『筑前国続風土記』600余人
  • 『橘山遺事』700余人
  • 『高橋紹運記』747人
  • 『西国盛衰記』763人
  • 『陰徳太平記』763人
  • 『校正鹿児島外史』殆1000人
  • 『島津国史』1000余り

との事です。古今東西『戦果は過大』、『被害は過少』って事からでしょうか?

高橋紹運が企図したであろう、岩屋城籠城戦の『戦術目標』と『戦略目標』の確認

戦術目標

  • 大前提、島津軍の足止め
  • 宝満城でも無く、立花山城でも無く、岩屋城に釘付けした上での足止め
  • 時間稼ぎ(半月程の足止め予定)
  • 薩軍三千人の抹殺(予定)

戦略目標

  • 主家大友氏の存続
  • 立花氏の存続(in 統虎)
  • 宝満城以下の高橋氏の存続(in マイファミリー)
  • 上記三家の存続の為の前提条件である、羽柴軍の援軍の確保
  • 羽柴軍確保の為の、島津軍の豊前侵攻阻止

筑前で出来うる策はこんな感じでしょうか?



 ネット上などでは、よく「岩屋城へ籠城した紹運は馬鹿」とか書かれたりしますが、岩屋城を早々に放棄した場合、薩軍は、岩屋城へ幾分かの抑えの兵を残して、立花山城へ進軍するのが普通だと考えます。立花山城を陥落させ、豊前国へ進出し、上方勢の渡海を阻止してしまえば、後方で宝満城を堅持したとして、たかだか二千程の兵で何が出来たのか。

 仮に自身の生き残りのみを考えた場合は、それでも良かったのかもしれませんが、島津氏に降伏し生き残った場合は、島津の先兵となって、かつての友軍や、関白秀吉の軍勢と戦う事になります。

 紹運が最前線となる小城の岩屋城へ籠った事で、島津氏からすると早期に筑前国を平定する好機でもあり、事実上の大将格である紹運を降せば残りの城は降ると考えていたようです。なので紹運は自らが好餌となり、岩屋で徹底抗戦をして兵力と士気を下げ、一族を分散する事により時間稼ぎと、大友以下の一族の存続、援軍の確実な渡海を担保にしたものと考えます。

■ 筑前 岩屋城の戦い

島津軍の太宰府着陣と降伏勧告 荘厳寺快心

 岩屋城には、五万の島津軍に対し、立花の援軍と紹運を始めとする岩屋将兵の僅か763名が籠城。薩軍(薩摩島津軍)は岩屋城の南方の般若寺に本陣を置き、城下の観世音寺(かんぜおんじ)に前線の指揮の為の陣を置きました。総大将の島津忠長はまず降伏を勧める為、弁舌に定評がある近隣の二日市(現・筑紫野市)の僧侶、荘厳寺(そうげんじ)の快心(かいしん)和尚を使者として赴かせました。紹運に対面した快心は

 「此度(こたび)岩屋表へ出陣したのは、貴殿に対してでは無く、筑紫広門に二心あり、武士としてあるまじき裏切りを誅伐すべく止むを得ず出向したものです。広門は思いの外速やかに降伏いたし、島津殿の本意も達せられました」

 「なれど、元来宝満城は筑紫が攻め取った城であり、貴殿の子息統増殿が籠られる道理がありません。宝満城を島津方へ引き渡されるのならば、和議を結んで直ちに全軍撤退いたすでしょう。貴殿があくまで抵抗されるとあらば、島津殿は直ちにこの城を攻め落とす事となります。島津殿も戦をを望むものではありません。城兵の為にもよくお考え下さい」

と開城を迫りました。これに対して紹運は

 「遠路薩隅の地より当城まで、大軍を持ってのご出陣はご苦労千万です。宝満の儀に於いて、宝満は元来高橋家の持ち城であり、宝満、岩屋、立花の三城は主家である大友氏の城であります。更に、大友氏を始め、立花、高橋家供、今や関白秀吉公の家人となっております」

 「この三城は秀吉公の城ですので、秀吉公の命なくば渡す事などできませぬ。強いてこれを受け取られると言うのであらば、関白殿下の証札をお見せ下さい。さもなくば、この紹運、死を決して城を守る所存。御坊、帰られたら速やかに攻められます様、島津殿へお伝え下さい。少しも対戦の労は厭い(いとい)ません。龍造寺、秋月等は義を忘れて島津殿についた恥知らずな輩であり、勝尾城の筑紫殿もむざむざ降伏致しましたが、この紹運は彼等と違い命の限り戦う所存ですので覚悟されよ」

と答えこれを一蹴し追い返しました。

秀吉の退陣勧告

 また翌13日には、豊臣家の軍監・黒田孝高(如水)の意を受けた小林新兵衛が密かに岩屋城に入城し、立花山城への退陣を進言しますが、

 「(中略)事ここに到っては立花へ引くことはかないません。私はこの城を枕に討死する覚悟です。どうか関白殿下がご出馬されたら、この事をお伝え下さい。私は地下で今日のご好意に報いましょう。また黒田殿の使者である貴殿に対し饗応するべきですが、ご承知の通りの敵軍に囲まれておりますのでそれも出来ません。何卒事情を推察下さい」

と懇切丁寧に答えました。新兵衛は紹運の志に感じ入り、供に籠城の兵に加わろうと志願しますが、紹運はこれを諭し、主への義務を果たさせるべく、人を付けて間道づたいに落としました。

壮烈岩屋城

天正十四年(1586)7月14日

 日本の戦国史の中で最も苛烈な激戦と云われる『筑前岩屋城の戦い』は、こうした中始まりました。五十倍(兵数には諸説あり)を超える敵兵を相手に、城兵は紹運の采配の許で一歩も引かず奮戦、昼夜をとわず激戦を展開しました。

この激戦の様子を『筑前国続風土記』には

 『終日終夜、鉄砲の音やむ時なく、士卒のおめき叫ぶ声、大地も響くばかりなり。火矢を射ることすきまなければ、城中の家とも大略焼にけり、屏の矢狭間は射閉られて開き得ず、城中には上下皆ここを死場所と定めたれば、攻め口を一足も引退らず、命を限りに防ぎ戦ふ。殊に鉄砲の上手多かりければ、寄せ手楯に遁れ、竹把を付ける者共打ち殺さる事おびただし』

また『北肥戦記』には

 『合戦数度に及びしかども、当城は究竟(くっきょう)の要害といい、城主は無双の大将といい、城中僅かの小勢にて五万の寄せ手に対し、更に優劣なかりけり』

と記されています。


 薩軍は猛攻を重ねたが損害が増すばかりで、十日あまりの間に城砦の一つも落とす事が出来ませんでした。大将・忠長はあまりの損害の多さに作戦を変え、一旦兵を退かせて、城下の農民を捕らえて口を割らせ、兵を派遣して水の手を押さえました。それでも城兵の士気は旺盛で、怪我を負った者まで敵に立ち向かう程であったといいます。

 しかし数に優る薩軍は、新手を入れ替えて攻めさせたので、城兵の疲れの見えはじめた26日になって、遂に外郭が破られました。城兵は二の丸・三の丸に退き、追撃してくる薩軍に大木・大石を落とし鉄砲・弩弓を射かけたので、手足を折られ圧死する者が数百にも及んだそうです。これに辟易した薩軍は、暫らく近寄る者もありませんでした。

武士足る者、仁義を守らざるは鳥獣に異ならず候

 甚大な損害を蒙った薩軍は、新納蔵人(にいろ くらんど)を軍使として遣わし、有利な条件を提示して和睦を説かせる事にしました。新納は城方に対して矢止めを請い、城兵、薩軍の見守る中、声高に問いかけます。新納蔵人曰く

 「さても、此度小勢を以て我等の大軍を相手に、堅く城を守られし事、真に天下に比類無き天晴れなる働き感服の至りに存ずる。さりながら紹運殿ほどの名将が何故暗愚無道な大友に忠節を尽くされるのか。元来大友は九州六ヵ国の管領でありながら、神仏を廃棄し、寺社を打ち壊して天理に背き、人道に反した故、臣下の信望を失い、人心は離れ、属城は次々に叛き、今は豊後一国さえ治めえぬ有様です。三略にも『智者は仁ならざる為に死せず』と申します」

 「それに対し我が島津義久公は、ご政道正しく、信義を以て人に接し、一日も早く九国の乱離を治めようとしております。『一張一弛』は武士の習い、張って弛めないのは文武のなさざる所です。これまでの勇戦で武門の意地は立ちましょう。拙者が責任を以て、城中の方々の一命と本領安堵を計らい申す。どうか速やかに、正道正しき島津へ降参致し城を明け渡されよ」


 最前線へ出ていた紹運は、わざと本名を名乗らず『麻生外記』(あそう げき)と名乗り櫓に姿を現しました。そして高らかに笑った後、軍衆の前で語り掛けます

 「これは新納殿のお言葉とおもえず。主紹運に申し聞かせるまでも無し、この外記が返事仕る。誰も静まりて聞かれ候へ。生ける者は必ず滅し、盛んなる者は必ず衰う。始めある者は終わり、古へ源平両家、天下に権を争いしよりこのかた、盛なる家の衰えざるや候。公方家を始め斯波、細川、畠山、山名、一色、吉良、今川、大内、上杉、武田、千葉、土岐、佐々木、宇都宮、朝倉、尼子、菊池以下の大家悉く破滅せり」

 「大友家は右大将頼朝卿より、豊前、豊後を賜って九州へ下向せしより以来、名字今に断絶せず、殊に此の二、三代は御門葉を賜り、九州の探題職として政令を施さるる処に、島津殿故なく、日向の伊東を押倒されし故、属国たれば伊東に加勢せしむる処に、不幸にして味方敗軍せり、是より幕下の国人等心を変じて、陰謀企て候、流石に大友なればこそ今に一領国も治め候へ」

 「島津殿も十年以前までは、根占、肝付、本郷、北原が勢、鹿児島まで乱入し一群さえ治めかね給いしが、近年こそそと世に出られ候、当時大友家の武威少し衰えたりとて、広言を吐き給うな。鳥なき里の蝙蝠(こうもり)、貂(てん)無き山の鼬(いたち)にてぞ候わん。近日関白秀吉公、九州に進発候間、島津家の破滅も程あるまじく覚え候」

 「主人(あるじ)の盛んなる時、忠(忠節・忠義)を励み、功名を顕わす(あらわす)者ありといえども、主人衰えたる時に臨んで一命を捨てる者は稀にて候。方々も島津滅亡の期に及んだ時、主を捨て命を惜しまれる御覚悟ありや、お伺い仕らん」

 「松樹千年の楽みも、槿花一日の栄に同じ、当陣五万の衆、誰が百年の齢を保ち候わん。武士足る者、仁義を守らざるは、鳥獣(けだもの)に異ならず候」

 注)(吉永正春氏著『筑前戦国史 増補改訂版』内『西国盛衰記』より引用)
 注)(少し読み易く改訂)


と言って撥ね付け、その堂々たる見事な対応に、城を取り囲む薩軍の中からも感嘆の声と共に喝采が挙がったといいます。蔵人は返す言葉も見つからず引き下がるより外ありませんでした。



 紹運が何故『麻生外記』を名乗ったのかは、理由がありました。過ぐる天正十一年頃、紹運は道雪と図り、「岩屋城に於いてその人あり」と知られた麻生外記を使者として島津と折衝をさせ、巧みな弁舌で島津氏にも知られた人物だったからです。

 蔵人が帰陣すると、麻生外記の容貌体躯を知る人がいた為、吟味しましたが、それは外記では無く、紹運自身であろうと判明しました。そして薩軍諸将は、紹運の見識の深さと弁舌に感心したといいます。

最後の勧告 快心再び

 新納蔵人の交渉に失敗した島津氏ですが、兵の損耗と、来たるべき上方勢との対決に備えるべく、降伏ではなく和解をも模索していました。これにより大将島津忠長はそ再び荘厳寺の快心和尚を岩屋城に赴かせる事となります。

 「此度八ヶ国の軍勢を率いて数日に及び候え共、城内物音もなく堅固に持ち支えられる事、古今に比類無きお働きを存じます。又当方も日夜働き、本日外曲輪を破りし事も手柄と申せましょう。双方手柄を申せば五分と五分、これを以て和睦と致したい」

 「宝満、立花、岩屋三ヶ城の本領は少しも相違有るまじく候、八ヶ国の寄衆の覚にて候条、実子を一人質人として給わりたい。然らば当陣を退き候べし。この後、豊州(豊後大友)、薩州(薩摩島津)の和議を紹運殿の仲裁で整えて頂きたい。その事成就の後に質人はお返し参らせ、九州一統にて、両家心をひとつにして中国へ切渡り、京都へ攻め登り天下を掌にし太平を謳い候わん」

 注)(吉永正春氏著『筑前戦国史 増補改訂版』内『九州軍紀』より引用)
 注)(少し読み易く改訂)

と説き、その一方で紹運の慈悲心に訴えて、己の志の為に城中城兵を死なせる事を憂い、更に双方に多数の死傷者が出る事への罪を説いた。


これに対し紹運は

 「貴僧の御懇意ある申し出は忝い(かたじけない)次第、さりながら、紹運たとえ命を惜しみ、立花統虎、並びに統増に貴家と和睦の申し入れをしたとしても、両人の同心の儀ははかり難く候、もし同心せざる時は紹運面目を失うのみならず、大友に対し数年の忠義皆空しく成り候事、返す返すも口惜しく候」

 「凡そ人の運命は極まる時があり、その極まる時節を知らずして、あなたへ従い、こなたへ従わん事は、勇士の恥る処也。秀吉公の御助勢もいつ着陣するかもわからず、仰せの如く近年の大友家は武威を失っているので、元より当城への後詰は思いもよりません。今や我が運命の極みの時期なのでしょう。貴僧は早々に帰陣いたし、急ぎ城を攻められる様進言して頂きたい。我らは一戦し、潔く討死いたす所存です」

と、紹運はこれも撥ね付けた為、忠長は翌27日、総攻撃を決断する事になります。

岩屋城籠城戦の斜め読み 徹底抗戦は全ての城兵の総意であったのか?

サイトテーマに対して都合が悪い事でも、書かねばならぬ事と思うので記述します。

 果たして「岩屋城の城兵は、皆が皆、死ぬ事を厭わなかったのか?」についてです。故・吉永正春氏著書『筑前戦国史 増補改訂版』に於いての記述を引用、参考とさせて頂いてます。

 同著内に於ける『陰徳太平記』の引用として、荘厳寺快心が紹運に最後の交渉を申し入れた時、城兵は和議の成就を願っていたのに、紹運の潔い返答で決裂となり、城兵は皆うなだれて絶望したとされます。

この時、宝満山の座主・浄戒坊隆全(じょうかいぼう りゅうぜん)という人物は、島津傘下にある龍造寺氏と誼があったので、紹運に対し、「この際島津と一旦和睦し、城兵を救って、秀吉公の到着を待たるべし」と諫めたと云います。これに対し紹運は怒り

 「其方はここから早く宿坊へ帰って、己に似合った国家安全の祈祷でもするがよい。軍事の事は法衣の外の事である」

と叱りつけ為、隆全はしおしおと対座し、付き従っていた坊中の者達も、悉く紹運を疎み落ちていった。と記しているそうです。




 感想としては「然もありなん」という所です。総ての人が、そこまで潔くなれないでしょうし、生死の葛藤は想像を絶するものだったのでしょう。関ケ原の役に於ける『島津の退口』後の「捨て奸(すてがまり)」戦術でも、総ての将兵が潔かったわけでもなく、逃げ出そうとした兵もいたそうです。(それでも仲間に叱責され、立ち戻って戦死してます)

 また、紹運の浄戒坊隆全に対する苛烈な言動は、盟友立花道雪が側室の於色に対し、実家の宗像大宮司家の裏切り行為を非難した際に叱責した言葉を彷彿とさせます。


 ただ一方でこの『陰徳太平記』の記述では、何故宝満の方に居たであろう、居ないとおかしい坊さん(?修験者?)が、落城差し迫った岩屋城へ居たのか?しかも何故そんなに大勢でわざわざ岩屋城へ居たのか謎であり、不信でもあります。一応参考までに記載。 

荘厳寺の快心について

誰も気にも留めないかもしれませんが、荘厳寺の快心さんについて一考をば。

 歴史資料や歴史書籍、はてに小説にも登場する謎の僧侶快心さん。太宰府市の隣の筑紫野市にある二日市の僧という事が書かれています。

 島津側の軍使として岩屋城へ派遣され降伏・和議勧告をした人です。歴史書は元より小説なんかでも、高圧で嫌な感じで書かれがちの人ですが、ホントにそんな感じだったのかな?と考えてます。場所柄、二日市は岩屋城下の様な位置にあり御膝元です。

 敵役の様に描かれがちですが、顔見知りの知り合いだったのでは無いかと推測してます。知り合いだからこそ、岩屋城へ赴いて交渉したのではないかと…。確証ありませんが…。



 某掲示板の『いい話・悪い話』スレに、高橋家臣の子孫さんの家伝が披露されてましたが、快心筆なる紹運と重臣と子孫さんのご先祖さんの描かれた掛け軸があると紹介もされていました。家伝である事と、匿名掲示板での話である事を置くとしても、興味深い話であります。

屍山血河 城兵の死戦

天正十四年(1586)7月27日早朝(4~6時頃)薩軍の最後の総攻撃が始まりました。

 紹運主従の必死の防戦も空しく、屍を乗り越えて次々と押し寄せる薩軍の猛攻の前に、将兵は討ち果たされてゆきます。

『西藩野史』には

 「大将島津図書頭忠長、城門を破り自ら鎚を取って先登(先頭)にすすむ。奮戦して柄を折る、城兵機に乗じて忠長を斬らんとす、永野長助来たり救い、宮原伯耆守、山本助六、森勘七、宮崎土佐助(共に忠長の臣)戦死して、忠長全き事を得たり」

と、自ら前線で督戦していた薩軍総大将島津忠長が、岩屋城兵の逆激に遭い負傷し、間一髪で難を逃れたとされる程、両陣営共に引く事が許されない屍山血河の激闘が繰り広げられました。

 しかし数で勝る薩軍により状況は城方不利な様相を見せ始めます。昼を過ぎた頃、福田民部少輔の虚空蔵台辰巳の守備口が破られ将兵は悉く討死。薩軍は次いで伊藤惣右衛門・成富左衛門等の守備する南門へ殺到しました。成富左衛門(別の説では伊藤惣右衛門)は、無双の剛弓の射手で、三人張の大弓をとって番い、矢種つきるまで敵を射倒した。郎党十名足らずで互いに「引くな、引くな」と声を掛け合い、一歩も退かず、雲霞の如く新手を投入する薩軍に飲み込まれるようにして討死しました。


 三の丸西南の城戸を守る岩屋城代家老の屋山中務は、薩軍主力部隊を相手によく防戦し、引き入んでは討ち、入り込んでは討ちを繰り返し、各々一人で敵を50名討取ったと云われます。誰一人傷を負わない者は無く踏み止まりますが、此処でも新手の薩軍を捌ききれず、遂に壮絶な最後を迎えました。


 風呂屋谷、百貫島、山城戸等の防衛戦は突破され、三原紹心、土岐大隅、伊藤八郎、弓削了意等も倒れ、次いで秋月押さえの持ち口も崩され、高橋越前らも戦死しました。


 山城戸の弓削了意は、天翔ける鳥をも射落とす手練れと云われ、壁の上から矢種の尽きるまで寄せ手を数多射倒しましたが、弓手を負傷し、今は是までと達観して、弓を捨て去ると、壁上から敵中に飛び降りて阿修羅の如く切り結び討死したと云います。



 殊に見事な最後とされたのが、百貫島砦を指揮した三原紹心(三原種徳、山城守、和泉守)であったとされます。文武両道にして剣の達人と知られた彼は、入道姿に華やかな緋縅(ひおどし)の鎧を纏い、鍬形打ちたる星兜に秘蔵の香を焚き、四尺に余る備前兼光が鍛えた重代の太刀を佩き(はき)、持ち口の城兵を励ましていました。

 しかし味方は各所で討取られ、薩軍が押し寄せ己の最期を見定めると、砦の柱に辞世を書き残し、浪々と辞世を吟じつつ敵中に切入りました。薩軍の只中に斬り込んだ紹心は、向かう者達の眉間を斬り、袈裟懸け、胴払い車斬りと武術の限りを尽くして薩兵を斬りまくりました。そして自らも数ヵ所の深手を負うと、今は是までと、向かってきた敵兵に組付き、そのまま敵兵と共に谷底に身を投げ壮絶な最後を迎えたといいます。享年39歳であったそうです。

 『打太刀(うつたち)の かねの響きも久方の 雲の上にぞ聞えあぐべき』
 『打太刀の かねのひゞきは久かたの 天津空にも聞えあぐべき』

 三原紹心は、筑後国北郷城(三原城)主であり、筑後十五城の一角に数えられる筑後国の国人で、紹運の継いだ高橋家とは、大蔵一門として同族でもありました。何故高橋家の下についていたのかは不明ですが、家としては同族なので、家臣というより、客将的な人物だったのかもしれません。

 三原紹心は岩屋城へ籠城するにあたり、残された娘達に『決して武家には嫁ぐな』と遺言していたそうです。




 薩軍の猛攻に各砦は悉く攻め落とされ、三の丸を攻め落とした薩兵は中の丸に攻め込みます。二重の櫓を守備する萩尾麟可、大学父子は、各砦から退いた残兵100名余りと共に最期の決戦とばかりに暴れまわりました。籠城半月にして疲労困憊の中、皆鮮血に染まり乱髪を鉢巻で結び直すと、形相凄まじく、思い思いに潮の如く攻め寄せる敵中に駆け入って戦いました。

 中でも、高橋・立花家中に於いても屈指の使い手と聞えた、剣豪でもある萩尾大学の活躍は凄まじく、味方の弱い所を助け飛び回っては寄せ手を斬り伏せ、向かう所敵無く屍の山を築いたとされます。余りの凄まじき戦に『萌葱威(もえぎおどし・もへぎおどし)』の甲冑は血に染まり、草摺(くさずり)は千切れ、刀の刃は簓(ささら)の如くなり、髪を振り乱して悪鬼羅刹の如き姿で斬りまくりましたが、衆寡敵せず、遂に乱戦の中討死しました。



 この三の丸から中の丸、二の丸の戦闘で、敵味方の死者が600~700程(1000人とも)出たとされ、屍が地を覆い、鮮血が草を染める程、凄惨を極めたと云います。


 これと前後して、水の手上の砦を守る村山刑部に対し、薩軍野村兵部と秋月勢1500余りが搦め手を攻めるにあたり、御笠郡杉塚村の百姓に金子握らせ道案内をさせ、城の背後から攻撃を加え、勇戦奮闘の末、全員討死しました。


 更に本丸搦め手を守る、立花家からの援軍吉田右京(左京とも)等は、後背からの薩軍の侵入により、此処を死に場所と思い定め、皆持ち場を一歩足りとも退く事無く奮戦し悉く壮絶な戦死を遂げました。



 そして岩屋城戦にて、最も憐れを留めたのが、城代家老・屋山中務が一子、太郎次郎でした。元服前であった太郎次郎は、故あって無理を通し宝満城へ行かず、母と共に岩屋城へ留まっていました。そして落城さしせまった頃、父中務の戦死を伝え聞くと、少年ながらも父の敵を討たんと太刀を抜き放ち、母の静止を払って押し寄せる薩軍に切り込んだのです。

 薩軍の将士は、まだ幼い少年が切り込んでくるのに驚き、囲みを解きました。頬を朱に染め斬りかかってくる太郎次郎を、薩軍の将士は斬るに忍びずなんとか捕らえようとしますが、どうする事も出来ません。その内、手傷を負う者まで現れた為、一人の薩兵が進み出て、せめて苦しまずにと思い立ち、太郎次郎を一太刀で斬り伏せ止めを刺しました。

 息子の死を目の当たりにした母は、放心状態のまま左右に支えられて落ちて行ったと云います。母の手には、駆け出す太郎次郎を引きとめようとして掴んでいた片袖が握られていました。彼女は残されたこの片袖を寝ても醒めても眺めつづけ、涙と共にに月日を送ったと云われます。

 この太郎次郎の名は、岩屋城戦死者名簿に城兵の一人として記されています。

 因みに屋山家の御子孫の家には、この太郎次郎の『白麻地、藍文』の遺袖が今なお大切に秘蔵されているとの事です。

紹運無双 ~激戦の果て~

 紹運主従の必死の防戦も空しく、屍を乗り越えて次々と押し寄せる薩軍の猛攻の前に、各所で将兵達は討ち果たされ、残った兵達は、紹運に最後の決別をし、満身創痍の体で薩兵に切り込んでいきました。

 本丸で指揮をとっていた紹運は、負傷者には自ら薬を与え励まし、死者には経を唱え弔っていましたが、薩兵が本丸まで侵入するに至り、自ら大長刀を持ち旗本を従えて薩軍に突入し、十七人まで斬り倒したといいます。

この時の紹運の様子を『西藩野史』

 「紹運雄略絶倫、兵をあげて撃ち出し、薩軍破ること数回、殺傷甚だ多し」

と記しています。

 紹運等の奮戦に寄せ手は怯んで後退するも、紹運も身に数ヶ所の疵を負い、僅か五十余人となった生き残りも、その多くは深手を負っていました。我が身の最後の時を悟った紹運は、敵の手にかからぬ内にと高櫓引き揚げます。最後まで付き従った旗本の吉野左京介が「館に火を放ちますか」 と問いかけると、紹運は

 「その儀は無用である。首を取らせる事で、義を守って死した事がわかる。死体が見えなければ、逃げ落ちた思われるであろう。武士は屍を晒さぬものと言うが、それは死に場所による。敢えて首を取らせよ」

と言ったといいます。そして潔く腹を切って果てました。

享年39歳。戒名は『天叟殿性海紹運大居士』


 紹運の最後を見届けた将兵は、同じく腹を切り、または刺し違えて悉く後を追って殉死。紹運を介錯をした吉野左京亮は、その刀で自刃しました。紹運の首を取る為に本丸に踏み込んだ薩軍将兵は、この凄惨な総自決を目の当たりにして声を挙げる事も出来ず、ただ足を竦ませたそうです。


紹運の辞世は、自決する前に扉にしたためたといわれる

 『屍(かばね)をば 岩屋の苔に埋めてぞ 雲井の空に 名をとどむべき』
 『流れての 末の世遠く埋もれぬ 名をや岩屋の 苔の下水』

の二首が伝えられています。


『鹿児島外史』に於ける紹運主従の最期をして

 「砲声雷震シ四面ヒトシクル登ル。鎮種(紹運)勇ヲ振テ之ヲ拒(フセ)ク。矢丸注スルガ如シ。大将忠長躬(ミズカラ)板築ヲ負ウテ士卒ノ先トナリ。親(ミズカ)ラ関ヲ破リ数創ヲウク。敵壁上ヨリ大石ヲ抛(ナ)ゲ下ス。我精驍斃レ傷ツク者。数十百人。薩兵益々撃進ス。鎮種スデニ重傷ヲ蒙リ牙城ニ入リテ而シテ自刲(ジケイ・自害)ス。左右声ヲ挙ゲテ仏名ヲ唱フ。我兵壁ニ付ク者皆曰ク。城内仏名ヲ唱フ。コレ主将死スルナリ。スナワチ堞(チョウ)ヲ超テ而シテ乱斬ス。首ヲ獲ルコト殆ド一千。城兵一人トシテ遁(ノガ)レ走ル者ナシ。拳(コゾツ)テ節ニ死ス」

と記されています。
 (引用 『筑前戦国争乱』吉永正春著)




翌7月28日
 紹運主従の首は、島津本陣に運ばれ首実検に饗されました。大将・島津忠長は敵ながら見事と称賛を惜しまず、最高の軍礼をもって執り行ったそうです。またその際、忠長は紹運の首の前に膝をつき、恭しく拝礼し

 「類い稀なる勇将を殺してしまったものよ。この人を生かし生涯の友となせば、いかばかり心涼しいものであったろう。弓矢を取る身ほど、恨めしいものは無い」

といって、紹運の死を惜しんだともいわれます。

 また別の説では、死した紹運の具足の引合せに数書の書状があり、一通は寄手の大将である島津図書頭忠長宛てであった。書状には『是一途、義によって候 諒承願い奉る』と、敵方である島津氏への謝罪と、事の顛末に恨みは無い事が綴られ、併せてもう一通の書状を「主家大友氏へ届けて頂きたい」との由をまるで日頃親しい朋輩へ頼むが如く書かれていた為、忠長はその場で泣き崩れたといいます。




紹運の死を確認した薩軍陣内では、激戦を生き残った事に、ただ悦びあったといいます。



 また同じくして、敵味方の戦死者供養として、秋月は仏心寺の茂林和尚を招き、その時の卒塔婆の偈(げ)に

 一将功成リテ九州ニ冠(かん)タリ
 戦場ノ血ハ染川(そめかわ)ニ入リテ流ル
 人ヲ殺ス刀是レ人ヲ活(いか)ス劔(剣)

 月白ク風高シ岩屋ノ秋

と贈っています。






 この戦いで島津軍は、大将株二十七騎、死者三千人、負傷者千五百人という、死者が負傷者の2倍にも及ぶという予期しなかった大損害を蒙りました。日向国から駆け付けた上井覚兼率いる援軍などは壊滅的打撃を受け、『耳川の戦い』で大友軍を高城にて翻弄し、島津家の興隆に貢献した勇将山田有信なども一時、意識不明になる程危険な状態に追いこまれました。

 これは島津側の強行的な正面攻撃に固執した作戦の失敗とも言えますが、一方で島津に従った諸豪族の出足が鈍く五万の軍勢といっても、一枚岩とはいえ無かった事。そして高橋紹運自身が最前線の小城に籠った事で、島津軍に対し、攻めなければ為らない状況を作り上げ、岩屋城に誘い込んだのだと解釈できます。



 岩屋城兵は一人も逃亡する者も無く、戦国史に於いても稀有な全員玉砕を果たしましたが『黒田家譜』には

 「城主高橋紹運かくれなき猛将なりしが、寄手よりさまざま和を乞ふといへども天性気あり節有て義を守る人なれば終に降らずして手いたく防戦して死す」

とあり、また『筑前国続風土記』にその理由として

 「紹運 平生情深かりし故 且は其の忠義に感化せし故 一人も節義うしなはさるなるべし」

と記されています。

島津軍の兵力と損害

岩屋城の戦い』での薩軍の兵力をまとめてみます。

まずは、西回り、筑前表への参陣諸氏

  • 『肥後国』宇土、城(じょう)、詫間(たくま)、山田、赤星、山鹿、河尻、隈部、合志、小代(しょうだい)、出田(いでた)、大津山、有働、等
  • 『肥前国』龍造寺(鍋島)、有馬、松浦、高木、本城、神代、波多、等
  • 『筑後国』蒲池、問注所、三池、草野、星野、田尻、江島、江上、等
  • 『筑前国』秋月、原田、等
  • 『豊前国』城井、高橋(元種)、千手、等

兵数としては

  • 6万   『島津代々軍紀』
  • 5~6万  『筑前国続風土記』     
  • 5万   『九州記』
  • 4万   『九州軍紀』『九州治乱記』

とされてる様です。(参考『筑前戦国史 増補改訂版』)
西廻りの薩摩島津氏本隊は2万です。これとは別に、東廻り豊後攻めを見据えた日向国に待機している兵が3万程いました。


次に、島津軍の損害の表立った記録を記載

  • 戦死三千七百余人     『島津世録記』
  • 戦死三千人、手負千五百人 『筑前国続風土記』
  • 大将たる武士二十七騎、その他死卒九百余、手負千五百人余 『高橋紹運記』
  • 名のある武士三十七人、諸卒千八百人、手負千五百九人 『陰徳太平記』
  • 三千七百余人       『九州治乱記』

 戦死、戦傷の数がどこまで信頼できるのかは不明ですが、現在2023年10月で露軍が侵略戦争をしている真っ最中でも、戦果過大、戦傷・戦死者を過少に発表している事も踏まえて、古今東西、戦果と損害の過少過大は成されるものと認識すべきでしょうね。。。

 ネットや、関東系出版社からの書籍では、島津軍は2万と過少にしたがる傾向にありますが、西国全般を矮小化したがるのは止めて欲しいですね。2万は薩摩本隊ですし。

 あと、損害については、島津氏の他は、筑後国の星野氏が岩屋城戦で半数に近い損害を出している位しか記録が見当たりません。本文では『一枚岩では無かった』みたいにかきましたが、実際には秋月氏や原田氏、龍造寺氏も普通に戦っている訳で、被害が無いわけがないのですが…。後々負け戦になる戦いの被害は記録に残したくないのでしょうね。

乱世の華

 島津軍は岩屋城で紹運を討ち果たした後、宝満山城を開城させ、筑前国での大友方最後の砦である立花山城まで攻め寄せましたが、岩屋城での損害が大きく攻めこむ事に逡巡してしまいます。それにつけ込んだ紹運の長男・立花統虎(立花宗茂)と立花家中の機略に阻まれて更に時を失い、島津氏は秀吉の軍勢に豊前国上陸を許してしまいます。

 勝機を失った島津軍は博多の町を焼き払って撤退。統虎は島津軍を追撃し損害を与え、時を置かずに奪われた宝満・岩屋両城を奪還し、紹運の弔い合戦で多大な戦果を挙げました。この頃より、岩屋城で散った紹運、39年の生、全てを駆けた戦略が実を結び始める事となります。



天正十四年(1586)9月9日、
 羽柴秀吉は、時の帝正親町天皇から『豊臣』姓を賜り、12月25日には『太政大臣』に就任。 之により『豊臣政権』を確立しています。

翌天正十五年(1587)
 豊臣秀吉は大阪を発し、25万と云われる未曾有の大軍を以って島津家を降伏させました。

 西国平定を見届けた豊臣秀吉は6月6日、薩摩国からの帰途、大宰府に立ち寄り、菅公の廟所・安楽寺天満宮(太宰府天満宮)に参詣し、観世音寺や都府楼(大宰府政庁跡)などを巡った後、わざわざ岩屋城へも足を運んだといわれます。

 この日、観世音寺近くに仮殿で、高橋、立花と、島津をはじめとした岩屋攻城に参加した緒将を招き、秀吉は高橋紹運とその郎党の奮戦をつぶさに聞き語らせたと云います。そして紹運と城兵を

『乱世の華』又は『戦国の花』

と、その忠節と功績を称えて彼等の死を偲んだといいます。



紹運の死後、長男で立花家を継いでいた統虎は秀吉に

 『その忠義鎮西一、その剛勇また鎮西一。上方にもこの若者と肩を並べる程の者があろうとは思われぬ』

と激賞を受け、以後、子飼いの家臣以上の別格の恩寵を受ける事となります。そして、九州陣第一の殊勲者として、筑後国・柳河(柳川)十三万余石を賜り、併せて大友家から独立して大名に取り立てられました。

 宝満城開城の後、島津軍の捕虜となっていた次男の統増(後の立花直次)も、無事に救出され筑後国・三池一万八千石を賜り、同じく独立して大名に取り立てられました。


 因みに、親戚筋にある筑紫広門も、一旦は島津氏に降りましたが、島津氏の撤退の混乱で所領を回復して巧く立ち回り、筑後国上妻郡に一万八千石を得て、辛うじて諸侯の列に加わる事が出来ました。広門が島津氏の虜となった際「昔は広門、今は狭門」と嘲笑した緒将は、ある者は所領を失い、あるいは減俸の憂き目にあった事を思えば、皮肉としか言い様がなかったでしょう。



 後年、宗茂・統増兄弟は、関ヶ原の合戦で恩ある豊臣家の為戦い、兄弟揃って領国を失うも、紹運・道雪に薫陶され武士として一貫した行動は衆人知る処であり、先人を辱める事がありませんでした。それが為に、天下の権を握った敵方である徳川家にも許され信頼されました。

 そして元和六年(1620)に立花宗茂は旧領柳河に再封され、翌元和年(1621年)には高橋家も旧領三池に再封を受け大名へと復帰し、徳川家が幕藩体制を築き、親藩・外様共に改易が相次ぐ中、両家共に奇跡的な旧領への返り咲きを果たす事となります。

 因みに、紹運の跡を継いだ『高橋統増』は、徳川家に仕える様になってから、徳川家康の謀臣・本多正信の勧めにより、『高橋』の姓を『立花』に改め『立花直次』と名乗る事となります。

 また高橋家は統増の死去(元和三年(1617)7月19日)により、大名としての復活は、子の種次の代で大名復帰する事となります。その後、柳河(柳川)と三池の両立花家は、兄弟藩として明治の廃藩置県まで続きます。三池立花藩は、六代種周の時、将軍家の権力闘争に巻き込まれ、陸奥伊達郡・下手渡藩へ転封されましたが、幕末期の十代種恭の時、再び三池藩へと再度の奇跡的な再封を果たし明治を迎える事となります。



高橋紹運のお墓は、岩屋城二の丸に家臣団に囲まれるように葬られています。二の丸にあるお墓は『胴塚』と云われ、近隣の筑紫野市二日市に島津氏が葬った『首塚』があります。

紹運の戒名は

 『天叟寺殿性海紹運大居士』(てんそうじでんしょうかいしょううんだいこじ)
 『天叟院殿性海紹運大居士』
 (書籍などでは『天叟院殿』と書かれていますが、昔のTV映像では『天叟寺殿』と御位牌に書かれていました。取りあえず併記しておきます。どちらでもいいのかな?)


 菩提寺には、柳河に封じられた立花統虎が『天叟寺』(てんそうじ、福岡県柳川市鍛冶屋町23)を建立、三池に封じられた高橋統増(後年の立花直次)が『紹運寺』(じょううんじ、大牟田市今山2599)を建立していて、紹運の家臣であった『藤内左衛門尉重勝』藤内重勝、とうない しげかつ)が建立した太宰府市にある『西正寺』(さいしょうじ、太宰府市宰府1丁目1−25)も、紹運と岩屋城兵、併せて島津軍の戦没者の菩提を弔っています。



 尚、三池立花家のあった福岡県大牟田市にある『三笠神社』(みかさじんじゃ、大牟田市鳥塚町88)は、父高橋紹運と母宋雲尼、そして子立花直次(高橋統増)を祭神として祀っています。社名は、高橋紹運の所領であった太宰府の御笠郡(みかさぐん)から取ったと云われます。

高橋紹運 詳細情報

スクロールできます
名前高橋 紹運      たかはし しょううん
その他の呼び名幼名=千寿丸     せんじゅまる、ちとせまる

本姓=吉弘 鎮理   よしひろ しげまさ
  =高橋 鎮種   たかはし しげたね

号=紹運(紹雲)   しょううん、じょううん

千寿丸→吉弘弥七郎→吉弘鎮理→高橋鎮種→高橋紹運



三河守(三河入道)
主膳兵衛尉(主膳兵衛)
主膳入道

(太宰府では『しょううん』、他方では『じょううん』と濁る)
生没年1548 ~1586

誕生=天文十七年 9月24日
     豊後国・東国東郡(ひがしくにさきぐん)
     都甲荘・長岩屋の筧城にて誕生

死去=天正十四年 7月27日
     筑前国・岩屋城にて自刃・39歳
戒名天叟寺殿性海紹運大居士
天叟院殿性海紹運大居士?
(本文にも書いてますが、書籍などでは『天叟院殿』と書かれていますが、昔のTV映像では『天叟寺殿』と御位牌に書かれていました。取りあえず併記しておきます。どちらでもいいのかな?)
辞世■ 「屍(かばね)をば 岩屋の苔に埋めてぞ 雲井の空に 名を留むべき」

■ 「流れての 末の世遠く埋もれぬ 名をや岩屋の 苔の下水」
菩提寺天叟寺 てんそうじ(福岡県柳川市鍛冶屋町23)
紹運寺 じょううんじ(福岡県大牟田市今山2599)
西正寺 さいしょうじ(福岡県太宰府市宰府1丁目1-25)
神社三笠神社 みかさじんじゃ(福岡県大牟田市鳥塚町88)
祭神    
    高橋紹運  神名 性海霊神 (高橋鎮種)
 室  宋雲尼   神名 花岳霊神 (宋雲尼、宋雲院)
 次子 立花直次  神名 玉峰霊神 (高橋統増=立花直次)
持ち城本城=宝満城(宝満山城) ほうまんじょう、ほうまんざんじょう

支城=岩屋城(城代・屋山中務、種速) いわやじょう
   龍ヶ城(城主・北原鎮久)    りゅうがじょう
   升形              ますかた?
   米の山(砦)          こめのやまとりで
役職宝満山城督、岩屋城督
吉弘鑑理 (大友家、三家老『豊州三老』の一人)よしひろ あきまさ
大友義鑑の娘(貞善院義誉静音)
兄弟兄=吉弘鎮信(加兵衛鎮信) よしひろ しげのぶ

女=菊子、尊寿院(大友義統の室)
女=不詳(戸次鎮秀の室)
宋雲尼、宋雲院 そううんに、そううんいん、斉藤長実の娘 
子供★ 二男四女 ★
長男 =統虎(高橋統虎、立花宗茂)
次男 =統増(高橋統増、立花直次)
女  =退清院殿梅月春光?(大友宗五郎能乗の室、大友義統の嫡子)
女  =甲斐、信解院  (立花吉右衛門成家の室、薦野増時の嫡子)
女  =於千代、栄長院 (小田部土佐守統房の室)
            (筑前・荒平城城主・小田部鎮元(紹叱)の次男)
女  =立花織部助の室、のち細川玄蕃頭興元の室

注)現在、退清院(退清院殿梅月春光)については、本人か別人か不明瞭。
補足情報■ 大友家・三家老(豊州三老)、吉弘鑑理の次男
■ 高橋鑑種の謀反後、高橋家を継ぐ
■ 筑前国・御笠郡=宝満・岩屋城主
■ 天正十四年 薩摩国島津氏と合戦におよび岩屋城にて玉砕
検索サイト用
キーワード提案

(キーワードが思い浮かばない貴方の為に)
高橋 紹運 紹雲 鎮理 吉弘 千寿丸 弥七郎 主膳兵衛 吉弘一族 大蔵一族 大蔵党 天叟寺 紹運寺 西正寺 三笠神社 岩屋城 宝満城 宝満山城 立花城 立花山城 戸次 道雪 鑑連 大友 宗麟 統虎 立花 宗茂 統増 直次 宋雲尼 宋雲院 広徳寺 大宰府 太宰府 柳河 柳川 三池 三池藩 柳川藩 柳河藩 島津 筑紫 広門 秀吉 斎藤 鎮実 鑑理 鎮信 信幸 統幸 義統 博多 筑前 筑後 豊後 国東 高田 筧城 たかはし しょううん じょううん 乱世の華 戦国の花 岩屋城の戦い 嗚呼壮烈 岩屋城址 龍ヶ城 米の山 北原鎮久 屋山中務 屋山種速 太郎次郎 萩尾大学 763 南無三 玉砕 GHQ
高橋紹運 詳細情報
よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
目次